- 掲示板
大人しくしてればそのうちいい意味で注目されてたかもしれないのにねw
なんか誰かのせいで変な印象つきましたねww
もはやこうなることを予測したアンチ武蔵小山の仕業だったのかとさえ思ってしまうwww
いわゆる都心は、千代田、中央、港なんでしょうが、ステータスが高い住宅街(戸建て中心)があるのは、港、渋谷、品川、目黒、文京あたりじゃないかな。
住都心5区と呼びましょうかね。
武蔵小山がアクセスが良いかと言われると正直微妙だし、
武蔵小山が高級住宅街かと言われると正直微妙だし、
再開発の規模だと正直日本橋とか浜松町とかの方が比較にならないくらい大規模だし、
なんかビミョー
リアルに武蔵小山ほどのポテンシャルのある再開発は今はないんじゃないかな。
もちろん住宅地としてね。ここはマンションの掲示板だから。
商業地はいくらでもあるけど、それが住宅地となるとほぼゼロ。
武蔵小山は本当に希少。それだけで価値が保てると客観的に見て思う。
「御殿山」
太田道灌が江戸城に入る前の長禄年間(1457年 - 1460年)に御殿山城を構えて居住していた。徳川家康が江戸城に入ってからは、御殿山城は「品川御殿」と呼ばれ、歴代将軍鷹狩の休息所として、また幕府重臣を招いての茶会の場として利用されていたほか、桜の名所として有名であった。
「島津山」
寛保3年(1743年)奥州仙台藩伊達家が下屋敷を構えた所で、明治維新後は屋敷はそっくり旧鹿児島藩主の島津公爵の邸宅となり名称は、旧島津公爵邸に因み、同邸宅は現在清泉女子大学となっている。
「花房山」
花房山は江戸時代から大名屋敷があり、 明治・大正期には日本赤十字社の社長を歴任した外交官である花房義質の別邸があったことに因む。
「八ツ山」
八人の諸侯の屋敷があったので「八ツ山」と名づけた。八ツ山にはかつて三菱グループ創始者岩崎弥太郎の別邸で、現在は三菱グループの施設となっている開東閣がある。関東閣は11200坪のうっそうとした緑に囲まれた広大な敷地に建つ、重厚な石造りの洋館。
「池田山」
岡山藩池田家の下屋敷「大崎屋敷」に由来する。二度の大火で屋敷を焼失した三代藩主光政が、幕府に願い出て拝領したのが「大崎屋敷」だった。明治以降も、池田家の屋敷として使用されたが、大正末期頃から敷地の大部分が高級住宅地として分譲された。
城南五山に関係ない「武蔵小山」
江戸時代、この一帯は畑や竹薮、雑木林が中心の様相だった。東海道品川宿への利水として玉川上水から分かれた品川用水が通され、この用水に沿って**も増えた。しかし、通りを離れると大正期あたりまでは閑散としており、大正12年では今のパルム商店街のある場所は幅2mほどの小道で、周りは畑ばかりであったという。
>品川区小山は高級住宅街の先駆けであって、田園調布なんかよりも格式がある
五十歩百歩でしょう。それより城南五山と同等となどと主張するから馬鹿にされるのですよ。歴史や格式的にも、麻布や松濤、城南五山などの一流立地と比較すると、田園調布や小山など所詮は二流です。それぐらい都内住みなら常識かと。いい加減学んでください。それともネタですか?以下ご参考。
現在、都内の高級住宅地と言われるところは、
1.)都心部の大名屋敷跡で、大正末期から昭和初期に区画分譲された地区
2.)郊外住宅地として、大正末期から昭和初期に区画分譲された地区、
3.)2.に隣接する地域で、その後発展した地域。
1.)については旧華族などの上流階級の人々が好んで購入し、当時から高級住宅地として
発展しましたが、あまりに都心過ぎるため、現在ではマンションなどが多くなっています。
代表的なところでは、港区麻布、文京区大和郷(本駒込6)、文京区西片町、目白近衛町、
渋谷区松濤、渋谷区大山町、品川区池田山、島津山(東五反田)などがあります。
2.)については、分譲当時の単価も安かったため、一区画の面積が大きく、
一般には中流サラリーマン向けの分譲でしたが、当時の中流サラリーマンは、
現在でいうインテリ層であり、住民の意識が高く良好な環境が維持されてきた為であると
考えられます。代表的な例としては、世田谷区桜新町(桜新町1、深沢7,8)、
洗足田園都市(目黒区洗足2、品川区小山7,旗の台6)、大田区田園調布、
目白文化村(新宿区中落合2,3,4、中井2)、城南文化村(豊島区向山3)、
世田谷区成城、馬込文士村(大田区山王)などです。
3.)については、東急大井町線の自由ケ丘~二子玉川(等々力、尾山台など)、
京王井の頭線の世田谷区、杉並区内(駒場、代沢、永福町、浜田山など)、
大田区の東急線沿い(久ケ原、雪ケ谷など)、東急東横線の目黒区内(八雲、碑文谷)などに
点在しているようです。