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マンションのネーミングだけでは住所がわからない、
目黒、目白、小石川、品川 なんでこんなに広範囲なのでしょうか。
挙げ句の果てにマンション名から一般人には
場所が何処だか理解できない TOKYO○○・・・、東京○○。
[スレ作成日時]2006-01-15 12:50:00
マンションのネーミングだけでは住所がわからない、
目黒、目白、小石川、品川 なんでこんなに広範囲なのでしょうか。
挙げ句の果てにマンション名から一般人には
場所が何処だか理解できない TOKYO○○・・・、東京○○。
[スレ作成日時]2006-01-15 12:50:00
このスレでも取り上げられている目白という地名・エリアについてですが、、、
目白というエリアの概念は、いかにも曖昧で移ろい易いものです。ともすると、東京で生まれ
育った者でさえ、その歴史や故事来歴をうっかり間違えてしまうほどです。そもそも「目白」
という地名の由来は、およそ120年ほど前、現在のJR山手線目白駅(当時の日本鉄道品川
線目白停車場)に新駅舎を作ろうした際、その駅名を、当時は現在の文京区関口にあった新長
谷寺の目白不動尊(昭和20年5月、新長谷寺は戦災で焼失。このため目白不動の本尊は、現在
の豊島区高田の金乗院に移設)の名にあやかって「目白停車場」と名づけたことに始まります。
ちなみに、江戸五色不動というものがあって、目白不動の他には、目黒不動 - 泰叡山瀧泉寺
(東京都目黒区下目黒)、目赤不動 - 南谷寺(東京都文京区本駒込)、目青不動 - 教学院
(東京都世田谷区太子堂)、目黄不動 - 永久寺(東京都台東区三輪)があります。目白不動が
目白の地名のオリジンであることから、当初目白不動が存在した現在の文京区関口界隈は、こ
れはもう歴史的にも立派な目白と云えますし、その後目白不動が移って来た金乗院がある豊島区
高田も、ある意味では目白と云って差支えないでしょう。とは云え、世間一般では山手線目白駅
開業以降、駅周辺一帯を自然に「目白」と呼び慣わすようになったものと考えられ、現在の目白
エリアのイメージがそれ以降固まります。即ち、目白駅を中心として、目白通り沿いに東西に広
がる住宅地・文教エリアこそが、現在も多くの人達がイメージする目白エリアの原点と云えるで
しょう。しかし不思議なことに、その当時目白駅周辺には「目白」という住所も住居表示も存在
せず、あるのは落合や高田といった地名のみでした。ところが、その後厄介の事が起こります。
昭和7年の大東京市35区移行に伴い、北豊島郡下の巣鴨町、西巣鴨町、長崎町、高田町の4町
が統合し豊島区が誕生しましたが、この際、旧高田町を中心に「目白」という住居表示が実施さ
れ、本来は、より広いエリアを意味するはずだった目白という地域の中で、「目白」と殊更公式
に表示される地域が出て来てしまったのです。このため、こうした目白の歴史や故事来歴をよく
理解していない地方出身者等を中心に、「目白」=「豊島区目白」と云った間違った理解・認識
が一部に広まってしまったことを否定できません。勿論、豊島区目白も目白エリアの一部ではあ
りますが、決して豊島区目白こそが目白を代表する唯一絶対の目白でないことに留意が必要です。
なお、目白のいわゆるお屋敷町・高級住宅地が形成された起源は、明治初期、現在の新宿区下落
合界隈の凡そ2万坪に及ぶ天領を、近衛篤麿公爵(五摂家筆頭近衛家当主。学習院長、貴族院議
長を歴任。近衛文麿元内閣総理大臣の実父)が明治天皇から下賜給わり、そこに広大な敷地の大
邸宅を構えたことに由来します。従って、現在でも旧近衛邸界隈一体を目白近衛町と呼び慣わし
ます。また、目白通りを挟んだ北側の豊島区目白にも、同じ頃から尾張徳川家が邸宅を築き、そ
れが目白界隈の高級住宅地の走りとなります。なお、現在では徳川黎明会や徳川ビレッジ等に、
その面影を見ることができます。
いずれにしても、このような歴史や故事来歴等に鑑みれば、新宿区下落合・中落合・中井(目白
文化村)、豊島区目白・高田・雑司ヶ谷、文京区目白台・関口等含む幅広い地域を、いわゆる
「目白エリア」と呼ぶことで特段の差し支えはないものと思われますが、より厳密に言えば、
目白というエリア名の由来である目白駅周辺部、特に新宿区下落合や豊島区目白界隈の古くから
の由緒正しき真の山の手高級邸宅街こそが、狭義での正当なる「目白」と云えると思われます。
このスレでも取り上げられている目白という地名・エリアについてですが、、、
目白というエリアの概念は、いかにも曖昧で移ろい易いものです。ともすると、
東京で生まれ
育った者でさえ、その歴史や故事来歴をうっかり間違えてしまうほどです。
そもそも「目白」という地名の由来は、およそ120年ほど前、現在のJR
山手線目白駅(当時の日本鉄道品川線目白停車場)に新駅舎を作ろうした際、
その駅名を、当時は現在の文京区関口にあった新長谷寺の目白不動尊(昭和
20年5月、新長谷寺は戦災で焼失。このため目白不動の本尊は、現在の豊島区
高田の金乗院に移設)の名にあやかって「目白停車場」と名づけたことに始
まります。ちなみに、江戸五色不動というものがあって、目白不動の他には、
目黒不動 - 泰叡山瀧泉寺(東京都目黒区下目黒)、目赤不動 - 南谷寺
(東京都文京区本駒込)、目青不動 - 教学院(東京都世田谷区太子堂)、
目黄不動 - 永久寺(東京都台東区三輪)があります。目白不動が目白の地名
のオリジンであることから、当初目白不動が存在した現在の文京区関口界隈
は、これはもう歴史的にも立派な目白と云えますし、その後目白不動が移って
来た金乗院がある豊島区高田も、ある意味では目白と云って差支えないでしょ
う。とは云え、世間一般では山手線目白駅開業以降、駅周辺一帯を自然に「目
白」と呼び慣わすようになったものと考えられ、現在の目白エリアのイメージ
がそれ以降固まります。即ち、目白駅を中心として、目白通り沿いに東西に広
がる住宅地・文教エリアこそが、現在も多くの人達がイメージする目白エリア
の原点と云えるでしょう。しかし不思議なことに、その当時目白駅周辺には
「目白」という住所も住居表示も存在せず、あるのは落合や高田といった地名
のみでした。ところが、その後厄介の事が起こります。
昭和7年の大東京市35区移行に伴い、北豊島郡下の巣鴨町、西巣鴨町、長崎
町、高田町の4町が統合し豊島区が誕生しましたが、この際、旧高田町を中心
に「目白」という住居表示が実施され、本来は、より広いエリアを意味するは
ずだった目白という地域の中で、「目白」と殊更公式に表示される地域が出て
来てしまったのです。このため、こうした目白の歴史や故事来歴をよく理解し
ていない地方出身者等を中心に、「目白」=「豊島区目白」と云った間違った
理解・認識が一部に広まってしまったことを否定できません。勿論、豊島区目
白も目白エリアの一部ではありますが、決して豊島区目白こそが目白を代表す
る唯一絶対の目白でないことに留意が必要です。
なお、目白のいわゆるお屋敷町・高級住宅地が形成された起源は、明治初期、
現在の新宿区下落合界隈の凡そ2万坪に及ぶ天領を、近衛篤麿公爵(五摂家筆
頭近衛家当主。学習院長、貴族院議長を歴任。近衛文麿元内閣総理大臣の実父)
が明治天皇から下賜給わり、そこに広大な敷地の大邸宅を構えたことに由来し
ます。従って、現在でも旧近衛邸界隈一体を目白近衛町と呼び慣わします。
また、目白通りを挟んだ北側の豊島区目白にも、同じ頃から尾張徳川家が邸宅
を築き、それが目白界隈の高級住宅地の走りとなります。なお、現在では徳川
黎明会や徳川ビレッジ等に、その面影を見ることができます。
いずれにしても、このような歴史や故事来歴等に鑑みれば、新宿区下落合・中
落合・中井(目白文化村)、豊島区目白・高田・雑司ヶ谷、文京区目白台・関
口等含む幅広い地域を、いわゆる「目白エリア」と呼ぶことで特段の差し支え
はないものと思われますが、より厳密に言えば、目白というエリア名の由来で
ある目白駅周辺部、特に新宿区下落合や豊島区目白界隈の古くからの由緒正し
き真の山の手高級邸宅街こそが、狭義での正当なる「目白」と云えると思われ
ます。
目白というエリアの概念は、いかにも曖昧で移ろい易いものです。ともすると、
東京で生まれ
育った者でさえ、その歴史や故事来歴をうっかり間違えてしまうほどです。
そもそも「目白」という地名の由来は、およそ120年ほど前、現在のJR
山手線目白駅(当時の日本鉄道品川線目白停車場)に新駅舎を作ろうした際、
その駅名を、当時は現在の文京区関口にあった新長谷寺の目白不動尊(昭和
20年5月、新長谷寺は戦災で焼失。このため目白不動の本尊は、現在の豊島区
高田の金乗院に移設)の名にあやかって「目白停車場」と名づけたことに始
まります。ちなみに、江戸五色不動というものがあって、目白不動の他には、
目黒不動 - 泰叡山瀧泉寺(東京都目黒区下目黒)、目赤不動 - 南谷寺
(東京都文京区本駒込)、目青不動 - 教学院(東京都世田谷区太子堂)、
目黄不動 - 永久寺(東京都台東区三輪)があります。目白不動が目白の地名
のオリジンであることから、当初目白不動が存在した現在の文京区関口界隈
は、これはもう歴史的にも立派な目白と云えますし、その後目白不動が移って
来た金乗院がある豊島区高田も、ある意味では目白と云って差支えないでしょ
う。とは云え、世間一般では山手線目白駅開業以降、駅周辺一帯を自然に「目
白」と呼び慣わすようになったものと考えられ、現在の目白エリアのイメージ
がそれ以降固まります。即ち、目白駅を中心として、目白通り沿いに東西に広
がる住宅地・文教エリアこそが、現在も多くの人達がイメージする目白エリア
の原点と云えるでしょう。しかし不思議なことに、その当時目白駅周辺には
「目白」という住所も住居表示も存在せず、あるのは落合や高田といった地名
のみでした。ところが、その後厄介の事が起こります。
昭和7年の大東京市35区移行に伴い、北豊島郡下の巣鴨町、西巣鴨町、長崎
町、高田町の4町が統合し豊島区が誕生しましたが、この際、旧高田町を中心
に「目白」という住居表示が実施され、本来は、より広いエリアを意味するは
ずだった目白という地域の中で、「目白」と殊更公式に表示される地域が出て
来てしまったのです。このため、こうした目白の歴史や故事来歴をよく理解し
ていない地方出身者等を中心に、「目白」=「豊島区目白」と云った間違った
理解・認識が一部に広まってしまったことを否定できません。勿論、豊島区目
白も目白エリアの一部ではありますが、決して豊島区目白こそが目白を代表す
る唯一絶対の目白でないことに留意が必要です。
なお、目白のいわゆるお屋敷町・高級住宅地が形成された起源は、明治初期、
現在の新宿区下落合界隈の凡そ2万坪に及ぶ天領を、近衛篤麿公爵(五摂家筆
頭近衛家当主。学習院長、貴族院議長を歴任。近衛文麿元内閣総理大臣の実父)
が明治天皇から下賜給わり、そこに広大な敷地の大邸宅を構えたことに由来し
ます。従って、現在でも旧近衛邸界隈一体を目白近衛町と呼び慣わします。
また、目白通りを挟んだ北側の豊島区目白にも、同じ頃から尾張徳川家が邸宅
を築き、それが目白界隈の高級住宅地の走りとなります。なお、現在では徳川
黎明会や徳川ビレッジ等に、その面影を見ることができます。
いずれにしても、このような歴史や故事来歴等に鑑みれば、新宿区下落合・中
落合・中井(目白文化村)、豊島区目白・高田・雑司ヶ谷、文京区目白台・関
口等含む幅広い地域を、いわゆる「目白エリア」と呼ぶことで特段の差し支え
はないものと思われますが、より厳密に言えば、目白というエリア名の由来で
ある目白駅周辺部、特に新宿区下落合や豊島区目白界隈の古くからの由緒正し
き真の山の手高級邸宅街こそが、狭義での正当なる「目白」と云えると思われ
ます。
>>24さん、解説ありがとう。
このスレでも取り上げられている目白という地名・エリアについてですが、、、
目白というエリアの概念は、いかにも曖昧で移ろい易いものです。
ともすると、東京で生まれ育った者でさえ、その歴史や故事来歴を
うっかり間違えてしまうほどです。
そもそも「目白」という地名の由来は、およそ120年ほど前、
現在のJR山手線目白駅(当時の日本鉄道品川線目白停車場)に
新駅舎を作ろうした際、その駅名を、当時は現在の文京区関口に
あった新長谷寺の目白不動尊(昭和20年5月、新長谷寺は戦災で焼失。
このため目白不動の本尊は、現在の豊島区高田の金乗院に移設)
の名にあやかって「目白停車場」と名づけたことに始まります。
ちなみに、江戸五色不動というものがあって、目白不動の他には、
目黒不動 - 泰叡山瀧泉寺(東京都目黒区下目黒)、
目赤不動 - 南谷寺(東京都文京区本駒込)、
目青不動 - 教学院(東京都世田谷区太子堂)、
目黄不動 - 永久寺(東京都台東区三輪)があります。
目白不動が目白の地名のオリジンであることから、当初
目白不動が存在した現在の文京区関口界隈は、これはもう歴史的にも
立派な目白と云えますし、その後目白不動が移って来た金乗院がある
豊島区高田も、ある意味では目白と云って差支えないでしょう。
とは云え、世間一般では山手線目白駅開業以降、駅周辺一帯を自然に
「目白」と呼び慣わすようになったものと考えられ、現在の目白
エリアのイメージがそれ以降固まります。即ち、目白駅を中心として、
目白通り沿いに東西に広がる住宅地・文教エリアこそが、現在も多くの
人達がイメージする目白エリアの原点と云えるでしょう。
しかし不思議なことに、その当時目白駅周辺には「目白」という住所も
住居表示も存在せず、あるのは落合や高田といった地名のみでした。
ところが、その後厄介の事が起こります。
昭和7年の大東京市35区移行に伴い、北豊島郡下の巣鴨町、西巣鴨町、
長崎町、高田町の4町が統合し豊島区が誕生しましたが、この際、
旧高田町を中心に「目白」という住居表示が実施され、本来は、
より広いエリアを意味するはずだった目白という地域の中で、「目白」と
殊更公式に表示される地域が出て来てしまったのです。
このため、こうした目白の歴史や故事来歴をよく理解していない地方出身者等を
中心に、「目白」=「豊島区目白」と云った間違った理解・認識が一部に
広まってしまったことを否定できません。
勿論、豊島区目白も目白エリアの一部ではありますが、決して豊島区目白こそが
目白を代表する唯一絶対の目白でないことに留意が必要です。
なお、目白のいわゆるお屋敷町・高級住宅地が形成された起源は、明治初期、
現在の新宿区下落合界隈の凡そ2万坪に及ぶ天領を、近衛篤麿公爵(五摂家筆頭
近衛家当主。学習院長、貴族院議長を歴任。近衛文麿元内閣総理大臣の実父)が
明治天皇から下賜給わり、そこに広大な敷地の大邸宅を構えたことに由来します。
従って、現在でも旧近衛邸界隈一体を目白近衛町と呼び慣わします。
また、目白通りを挟んだ北側の豊島区目白にも、同じ頃から尾張徳川家が邸宅を
築き、それが目白界隈の高級住宅地の走りとなります。
なお、現在では徳川黎明会や徳川ビレッジ等に、その面影を見ることができます。
いずれにしても、このような歴史や故事来歴等に鑑みれば、新宿区下落合・
中落合・中井(目白文化村)、豊島区目白・高田・雑司ヶ谷、文京区目白台・
関口等含む幅広い地域を、いわゆる「目白エリア」と呼ぶことで特段の差し支えはないものと
思われますが、より厳密に言えば、目白というエリア名の由来である目白駅周辺部、
特に新宿区下落合や豊島区目白界隈の古くからの由緒正しき真の山の手高級邸宅街こそが、
狭義での正当なる「目白」と云えると思われます。
目白というエリアの概念は、いかにも曖昧で移ろい易いものです。
ともすると、東京で生まれ育った者でさえ、その歴史や故事来歴をうっかり間違えてしまうほどです。
そもそも「目白」という地名の由来は、およそ120年ほど前、現在のJR山手線目白駅(当時の日本鉄道品川線目白停車場)に新駅舎を作ろうした際、その駅名を、当時は現在の文京区関口にあった新長谷寺の目白不動尊(昭和20年5月、新長谷寺は戦災で焼失。このため目白不動の本尊は、現在の豊島区高田の金乗院に移設)の名にあやかって「目白停車場」と名づけたことに始まります。
ちなみに、江戸五色不動というものがあって、目白不動の他には、目黒不動 - 泰叡山瀧泉寺(東京都目黒区下目黒)、目赤不動 - 南谷寺(東京都文京区本駒込)、目青不動 - 教学院(東京都世田谷区太子堂)、目黄不動 - 永久寺(東京都台東区三輪)があります。
目白不動が目白の地名のオリジンであることから、当初目白不動が存在した現在の文京区関口界隈は、これはもう歴史的にも立派な目白と云えますし、その後目白不動が移って来た金乗院がある豊島区高田も、ある意味では目白と云って差支えないでしょう。とは云え、世間一般では山手線目白駅開業以降、駅周辺一帯を自然に「目白」と呼び慣わすようになったものと考えられ、現在の目白エリアのイメージがそれ以降固まります。
即ち、目白駅を中心として、目白通り沿いに東西に広がる住宅地・文教エリアこそが、現在も多くの人達がイメージする目白エリアの原点と云えるでしょう。
しかし不思議なことに、その当時目白駅周辺には「目白」という住所も住居表示も存在せず、あるのは落合や高田といった地名のみでした。ところが、その後厄介の事が起こります。
昭和7年の大東京市35区移行に伴い、北豊島郡下の巣鴨町、西巣鴨町、長崎町、高田町の4町が統合し豊島区が誕生しましたが、この際、旧高田町を中心に「目白」という住居表示が実施され、本来は、より広いエリアを意味するはずだった目白という地域の中で、「目白」と殊更公式に表示される地域が出て来てしまったのです。
このため、こうした目白の歴史や故事来歴をよく理解していない地方出身者等を中心に、「目白」=「豊島区目白」と云った間違った理解・認識が一部に広まってしまったことを否定できません。
勿論、豊島区目白も目白エリアの一部ではありますが、決して豊島区目白こそが目白を代表する唯一絶対の目白でないことに留意が必要です。
なお、目白のいわゆるお屋敷町・高級住宅地が形成された起源は、明治初期、現在の新宿区下落合界隈の凡そ2万坪に及ぶ天領を、近衛篤麿公爵(五摂家筆頭近衛家当主。学習院長、貴族院議長を歴任。近衛文麿元内閣総理大臣の実父)が明治天皇から下賜給わり、そこに広大な敷地の大邸宅を構えたことに由来します。
従って、現在でも旧近衛邸界隈一体を目白近衛町と呼び慣わします。また、目白通りを挟んだ北側の豊島区目白にも、同じ頃から尾張徳川家が邸宅を築き、それが目白界隈の高級住宅地の走りとなります。なお、現在では徳川黎明会や徳川ビレッジ等に、その面影を見ることができます。
いずれにしても、このような歴史や故事来歴等に鑑みれば、新宿区下落合・中落合・中井(目白文化村)、豊島区目白・高田・雑司ヶ谷、文京区目白台・関口等含む幅広い地域を、いわゆる「目白エリア」と呼ぶことで特段の差し支えはないものと思われますが、より厳密に言えば、目白というエリア名の由来である目白駅周辺部、特に新宿区下落合や豊島区目白界隈の古くからの由緒正しき真の山の手高級邸宅街こそが、狭義での正当なる「目白」と云えると思われます。