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まるでユダヤ人撲滅のヒトラーのように
銃殺、撲殺、絞殺。あらゆる殺し方で3万人を虐殺。
強姦され腹を割かれ胎児を引きずりだされた犠牲者もいるという。
殺戮集団韓国。売春婦問題の前にベトナムに公式に謝罪しろ。
[スレ作成日時]2014-06-08 19:50:27
まるでユダヤ人撲滅のヒトラーのように
銃殺、撲殺、絞殺。あらゆる殺し方で3万人を虐殺。
強姦され腹を割かれ胎児を引きずりだされた犠牲者もいるという。
殺戮集団韓国。売春婦問題の前にベトナムに公式に謝罪しろ。
[スレ作成日時]2014-06-08 19:50:27
よい投稿がありました。紹介します。
あの号泣・絶叫(元兵庫)県議会議員って、激しくファビョってたよね!
・・・・とすると、ファビョるって日本の病気だってことか・・・・・w
>日本人の社会的孤立度は世界一 もはや国民病「生きづらい」の正体
http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10150322705.html
刊SPA!(10/14)の特集「もはや国民病『生きづらい』の正体~OECDの統計では日本人の『孤立度』は世界一」で、とりあげられている派遣労働者の声の一部です。
特集の中の「データで見る“生きづらい国”ニッポン」では、2002年から30代のうつ病増加や将来への不安要素の増大による自殺者増とともに、職場の人間関係が次第に殺伐としていく様が如実にあらわれているデータとして、「産業人メンタルヘルス白書」07年度版から「職場の人はみんないい人だと思う」と答えた人が1982年63%から2006年46%、「職場で自分の思ったことは素直に他人に話せる」と答えた人が1984年60%から2006年44%と、一貫して減少していること。そして、OECDによる世界価値観調査で社会的孤立の度合いは日本が世界一(※下のグラフ参照。グラフ上でクリックすると拡大して見ることができます)で、どこをどう見ても日本という国は「生きづらい」現状であると指摘しています。
>海外には見られない症状?!
http://www.geocities.co.jp/Beautycare/1336/kaigai.html
対人恐怖は海外にはほとんど見られない症状です。日本の独特の文化、習慣ならではの症状なのでしょう。
日本人は昔から、近所づきあい、上下関係、とにかく、他人あっての自分でした。だから人に合わせることにかけては天下一品でした。だから子供を育てるときでも人前に出たらしっかりしろと育てられます。「協調性」、「調和」です。
ところが欧米では個性を大切にしています。いくら人前で少しくらい自分が人と違っていても気にしません。
ところが、現代においては、他人との協調が変な方向に向いてしまい、少し過敏すぎています。それが現代日本にこの症状を拡大させている原因となっているのでしょう。
対人恐怖は非常に厄介な症状です。いくら精神科に行こうが、処方する薬を飲もうが、本を読み漁ろうが、その他何としても状況を変えようといろんなことを試みるが、全く状況は変わらない人も多い、どうにもならない状況から仕事などをいったん止め休息するが、気は少しは安らぐものの根本的な物が解決することはなく、社会復帰することでまた同じ繰り返しになってしまい人もいる。本当に簡単な事が出来ない、ひどくなるとこのように完全に自分を追い込んでしまいます。
>日本、国債依存症は国民病 The liquor drinks the Liquor
Financial Timesの株式論評欄LEX Columnは、同紙第一部の最終ページに鎮座して「寸鉄人を刺す」警句に満ち溢れている。この欄を読めば居ながらに世界経済を鳥瞰できるのだが、本日は年末に当たり棚卸の寸評の中に「日本国債」がトップで取り上げられている。
国債発行に極度に依存している日本国の財政当局者を「10年来心胆を寒からしめてきている」最悪シナリオ(a scenario that has sent a chill down the spine of every official in Japan’s debt management office for the past decade)は、国債を44%も買い付けてくれるメガバンクをはじめとする銀行業界が国債離れをすることだと指摘している。
韓国という病
資本主義の精神というものをマックスウェーバーは提唱しました。それは宗教的ともいえる無条件の節制と勤労です。それによって資本が蓄積され資本主義が発生できるというものです。しかし実際はそれだけでは、資本主義の精神とはいえません。そこには「進歩への意思」、がないのです。向上のための向上心。もう、宗教的なほどの高みへの憧れ。よりよいものを作ろう、より便利なものを、より安く作ろう、完璧なものを作ろう、という無条件の意思。「進歩への意思」こそが、模倣から変化へ、変化から創造へと誘う力になります。進歩を尊び尊敬する心が資本主義には必要なのです。
それがない韓国は資本主義ではありません。資本主義の資格もなく、生き残る能力もありません。
日本の部品や工作機械を買って組み立てる下請けの工場にすぎません。資本主義という灼熱の太陽の下で、日本の影に隠れて、日本の影の中でしか生きられない、日本がいなくなれば、資本主義の光の中で、そのおぞましい姿をさらしながら灰と散っていく冥界の魔物なのです。
本来資本主義でない前近代の国家が資本主義として生きていく、それは、あまりにも異常なことであり、確実に韓国はこのままでは地獄を味わいながらあるべき姿へと戻っていくことでしょう。日本にとって必要なのは、高品質で低価格の労働であり、それはまもなく東南アジアや台湾が担うことになるでしょうから。
http://www2.biglobe.ne.jp/oni_page/other/hih/kor001.html
慰安婦は殺されました
日本軍が撤退した後の朝鮮半島での出来事
韓国軍が強制連行したサヨクの朝鮮人と韓国人女性達は韓国軍の性奴隷にされた後、虐殺されました
サヨクの一部の女性は日本に逃れて在日になりました
↑
日本に密航して来た在日のおばあさんが、韓国済州島での少女時代を語ってました
一緒に逃げる途中、足の遅い友人が殺されたそうです
共産主義の疑いだけで虐殺されるので、小学校の校庭は死体の山だったそうです
韓国軍は、虐殺の罪悪感が麻痺していました
済州島民は見下され、同胞韓国人にも差別されていたそうです
おばあさんは日本は天国だったと言ってました
182
言う通りです。
韓国でもまともな高齢者は慰安婦は売・春・婦の人がなったと言ってますよ。
済州島あたり日本に近く、強制連行が最も起きてもおかしくないところ。
でも平和そのもの。長年住んでる高齢者が否定してるくらいだからね。
また自国民を殺戮したのは韓国軍自身です。保導連盟事件など
李相伴が対立する側の同じ韓国人を1000万人も虐殺した。
ポルポトと李相伴だけです。大量の自国民を殺したのは。
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韓国と戦争はしていない
韓国も敗戦国
捕虜虐待の戦犯として処刑された韓国人は靖国神社に祀られている
韓国人は日本と戦ったとでも教えられているのか?
終戦の時、連合国側に張り付いて日本の領土(対馬、九州)を奪う計画をしてアメリカにこっぴどく怒られた
それで、韓国は勝手に李ラインを引いた
竹島は、敗戦国日本からの勝利品らしい
韓国は、韓国人は支離滅裂
狂ってる
ベトナム市民を強姦、虐殺、死体損壊した韓国人
そんな韓国人は、どの面下げて
ナチスのホロコーストと日本の従軍慰安婦を同格にして世界発信してるんだ
韓国のベトナム市民殺戮は、ホロコースト以上の残酷さだったではないか
韓国のベトナム惨劇こそ、世界中が知るべきだ
by 真実 2015-01-18 17:07:12 投稿する 削除依頼
ここに掲載するのは、元「慰安婦」の方々から聞き取った証言の一部です。
こういう声を無視して安倍自民党は日本軍のレイプ事件を隠蔽しようとしています。
証言1 金田君子(韓国)
金田君子さんは1921年10月22日に東京で生まれました。父は朝鮮人、母は日本人でした。生後すぐ実母と別れ、父の郷里へひきとられました。父は牧師となりましたが、1935年に神社参拝をしないからとして、逮捕されました。16歳のとき、向かいの日本人の家で働いていた娘の話で、よい働き口があるということで、ソウルへ行き、日本人に引率されて、汽車に乗せられました。中国天津から北站をへて、棗強の部隊に送られ、慰安婦にされたのです。そこで金田君子という名前を与えられました。やがて、棗強から石家荘へ移りました。現実から逃避するために吸い始めたアヘンの中毒になった金田さんは1945年、帰国を許されました。戦後過酷な慰安所生活で傷ついた子宮を摘出しなくてはなりませんでした。金田さんは、1997年1月韓国において初めて基金の償い事業と総理のお詫びの手紙を受け入れた被害者の一人となりました。2005年1月27日、金田さんは亡くなりました。
父のこと
私が14歳の時父が神社参拝をしないからと警察に連行された。私は弟たちの世話とか、家の手伝い掃除をしなければならないので、学校に行きたいという考えも余裕もなかった。
14歳の時父が日本の高等警察に連れていかれた。父は日本語が上手だったので、これからは信徒を連れて神社参拝するからと、嘘をついて、家に帰った。電気拷問された足のやけどを治療しているうちに、神社参拝しないからといって、再び警察が父を捕えに、明け方4時ごろやって来た。その時父は教会でお祈りをしていた。私は飛び起きて、知らせに走った。
「父さん逃げてよ。また警察が来たよ」当時教会の周りは田んぼや畑で、その向こうに日本人の**があった。父はお祈りをやめて、そこを通って逃げた。大邸に出て、慶北の城州に済む叔母を訪ね、そこに隠れ住んだ。
中国へ連れて行かれて
明け方4時の汽車に乗り山海関まで行った。2時間ほど汽車が止まったので、私とよし子は逃げようとした。しかし出入口には憲兵が見張っていて、怖くなり、もどってきた。汽車の中で一晩寝て、2日目の11時ごろ天津駅に到着した。天津駅に降りると、完全武装の軍人たちがトラック1台、馬車1台、それにジープ車1台を出して待機していた。私たちは馬車に乗せられた。馬車に乗せられて北站という所に連れて行かれた。
北站のある家に着くと、女達が数人いて、ひしめきあっていた。その近くには日本の軍隊がいて、討伐に出たり入ったりしていて、恐かった。その日10人ずつ配置された私たちはナツメキョウ(棗強)に行かされた。行ってみると、城の中に日本軍がいて、私たち全員は部隊の中に連れて行かれた。そして軍隊の食堂に入れられた。みんな地べたに座りこんだ。
慰安婦にさせられる
どんな気持ちだったかって。もう殺されに来たんだと思え、泣くしかなかった。話をする人はなかった。泣くだけだった。部隊で一晩寝て、次の日からその部屋に入れられた。兵隊が部屋に入って来たが、死んでもいうことをきかなかった。最初の兵隊は酔ってなかった。服を脱がそうと、ひっぱられたが、ダメだといったら、帰っていった。二番目の兵隊は酔っぱらって入って来た。酔っぱらっていて、刀を見せながら、言うことをきかないと殺すと脅した。だけど死んでもいいと、言うことをきかなかったので、結局刺されてしまった。ここを刺された(胸を開いて指す)。刺された瞬間、私が後ろに倒れたので、この程度の傷で終わった。その兵隊は憲兵隊に連行され、私は衛生室に連れて行かれた。着ていた服が血に染まった。20日間衛生室で治療をうけた。
ふたたび自分の部屋に戻ると、討伐から帰った兵隊がやって来た。20日間治療をうけたので、胸の傷は良くなって、バンソコウを貼っていた。それなのにまた兵士が襲ってきた。恐かったが、言うことを聞かなかったので、兵士は私の手首をひねって、部屋の中から外へ投げとばした。だがら私の手首は骨が折れて、バラバラになっている。ここで折れて、ここには骨がない。今も痛むので手術しようとしても、年をとっているから、治せないって言われた。ここは軍靴で蹴られ、肉がさけ、骨が見えた(すねをさす)。今も傷跡が残っている。だがら、足に力がなく、ころびそうで、とても痛む。
石家荘の慰安所で
朝から夜まで兵隊を相手にした。15人以内だった。討伐から帰ったときは、朝早くから来た。多い日は20人位になった。だからあとで子宮を(20代で)摘出するようになった。幼い娘たち、国民学校5,6年、中学校高校くらいの少女を連れてきても、***が小さいでしょう。あそこがバラバラになって、菌が入り、薬といえばロクロク(性病予防の薬606号)と赤チンキしかなかった。だから膿んで治療できない。そういう時は中国人労働者に防空壕に草をたくさん敷かせて、そこに病人を入れた。布団もない。下は土なのだ。軍隊の命ずるままに中に入れられた。当時は電気はなく、ランプだった。防空壕にはランプもくれなかった。だから真っ暗な中で、「母さん腹すいたよ!母さん痛いよ」と叫んでいた。
私たちが残り飯をもっていきたくても、頭がおかしくなった者もいるし、体の悪い者、肺病にかかっている者、こんな人ばかりで、恐ろしくて行けない。灯があれば、行けるけど、灯もないので、入れなかった。つかまって、放してくれなければ、どうするか。だから、私たちも中に入れなかった。何人かが死ぬと、娘たちは恐ろしいから、叫びはじめた。すると、みな一緒にして、防空壕に薬をいれて、殺してしまい、埋めてしまった。埋めてから、その横に新しい防空壕を掘り、また病人が出れば、そこに入れたのだ。・・・・・
No.22
by 真実 2015-01-18 17:08:11 投稿する 削除依頼
証言2 マリア・ロサ・ヘンソン(フィリピン)
ロサ・ヘンソンさんは1927年12月5日、マニラ近郊パサイで生まれました。大地主の父とその家事使用人であった母の間にできた婚外子でした。14歳の誕生日の3日後に太平洋戦争がはじまり、フィリピンは日本軍に占領されました。1942年2月、彼女は家で使う薪をとりに叔父や近所の人たちと出かけたのですが、そのさい二人の日本兵と将校にレイプされてしまいます。2週間後にも同じ将校にレイプされました。そのような経験を経て、日本軍に激しい怒りを感じた彼女は抗日人民軍フクバラハップに参加しました。一年後、1943年4月アンヘレス市郊外の検問所を通過しようとしたところ、捕らえられ、日本軍の司令部に連れて行かれ、そのまま監禁され、継続的にレイプされることになったのです。彼女はそのとき16歳でした。彼女は9ヶ月間このような生活をおくったあと、1944年1月ゲリラによって救出されました。日本降伏後、彼女はフィリピン軍の兵士であった人と結婚しました。二人の娘が生まれた後、夫は共産軍に参加して、死にました。彼女は洗濯婦やタバコ工場の労働者として働きました。1992年彼女はラジオ放送の促しを聞いて、名乗り出ました。フィリピン最初の人です。1996年アジア女性基金を受取った3人のひとりでした。ロサ・ヘンソンさんは1997年8月18日に死去されました。
私は、彼らが兵営にしていた病院にとどまるように強いられた。2,3日のうちにそこの兵営の中で6人の女性と会った。日本兵は私に同僚の兵隊数人と性の相手をするように強制した。ときには12人もの兵士が私に性の相手を強要し、それからしばらく休んだあとで、また12人ほどの兵士が私に性の相手をさせるのだった。
休みはなかった。彼らはまるでたえまなく私に性の相手をさせたようだった。だから、私たちはくたくただった。兵士たちは全員がこれでよしとなるまで、休ませなかった。おそらく、兵営にいたの私たちは7人だったのだから、一人あたりをとれば、兵士の数はそんなに多くなかったろう。
しかし、私はほんの少女だったから、これは私にとって苦痛そのものの経験だった。私はそこに3ヶ月いて、そのあと同じアンヘレスの精米所に移された。私たちが移動するぞと言われたのは夜になってからだった。精米所につくと、おなじことがはじまりました。ときには朝から、ときには夕方から、20回以上もされたことがある。ときどき、私たちは日本人の住まいに連れて行かれることがあった。私が覚えているのはパミントゥアン歴史博物館だ。そこには何回か行かされた。いやだとは言えなかった。そう言えば、確実に殺されただろう。朝のうちは警備兵がいた。兵営の中は歩き回ることが許された。しかし、外出はできなかった。私は一緒にいた女性と話をすることもできなかった。そのうち2人は中国人だったと思う。それ以外の人は私と同じくパンパンガから連れてこられたようだった。しかし、あのときは、私たちはお互いに話をすることも許されなかった。
「リラ・ピリピーナ被害者証言要旨、マリナ・ロサ・ヘンソン、69歳、
パンパンガ洲居住」(1992年9月作成)
これまで私は何度も、今でも日本人に対して怒りを感じるかと聞かれた。おそらく信仰が救いとなっているのだろう。私は苦しみを受け入れることを学んできた。同時に許すことも学んだ。イエス・キリストが、自らを十字架にかけた人々を許すことができたのだから、私もまた、私を凌辱した人間たちを許す心をもつことができるはずだと思ったのだ。半世紀の月日が流れた。私の怒りも憤りも、昔のままではないかもしれない。自分の経験を語ることにより、過去を受け入れる気持ちをもつことができるようになってきた。それでもなお私は、正義が果たされるのを、死ぬ前に見届けたいと望んでいる。
No.23
by 真実 2015-01-18 17:08:34 投稿する 削除依頼
証言3 ある台湾人被害者
この方は1930年台湾苗栗県に生まれました。彼女は台湾内の日本軍施設に連れて行かれ被害に遭いました。
50年たってから初めて御主人に話しました。彼女は、そして年金の事業を受け取られました。
そのとき、わたしの婚約者は日本の兵隊にとられて、南方へ行っていました。わたしは家でお父さんの仕事を手伝っていました。そうしたら日本人の警察が呼びに来て、仕事があるから来なさいって言いました。兵隊にご飯をつくったり、破れた着物を縫ったりする仕事だと。行きたくないと思ったけれど、警察の人が、いまは戦争で男も女も国家総動員法だから来なくてはいけないと言うので、働きに行くことにしました。日本兵がたくさんいました。わたしのほかに女の人も何名かいました。わたしたちは朝起きたら顔を洗って、ご飯をつくって兵隊に食べさせ、それから洗濯して、破れた着物を縫いました。そうしたら、夜になって呼ばれて、部屋に入れられて…、悪い仕事でした。
泣いてばかり。昼間は着物を縫って、洗濯して、この仕事は楽でした。でも夜は死んだ。死んでるんです、死んでいる気なんです。逃げたいけれど道がわからない。それに門のところに兵隊が立っているから、逃げたら鉄砲で撃たれるでしょう。
子どもだったですよ、なにもわからなかった。妊娠したこともわからない。食べ物を食べても吐くから、一緒にいた女の人に妊娠しているよと言われました。二ヶ月で流産しました。今でも涙が出ますよ。あぁ…あんたにこんな悪い話を聞かせて、すみませんね。
婚約者はもう死んだと思っていたけれど、戦争のあと長い間して突然帰ってきました。それから結婚しました。でも主人にもずっと言わなかった。誰にも何も言わなかった。言えないですよ。
50年たってから、ほかにもわたしと同じ人がいることがわかって、わたしも黙っておれなくなって、がまんできなくなって、主人に話しました。許してくださいといって頭を下げた。主人はびっくりして、自分も戦争で苦しかった、あんたも苦しい目に遭っていたんだねと言いました。でもしようがない、これは戦争だからといって許してくれました。それまでずっと、主人がこれを聞いたら、わかったらどうするかと思うと、心が怖かった。そのことばかり考えていました。でも主人に話して、気持ちが明らかになりました。
いまは主人とふたりで暮らしています。ひざや体が痛くて畑の仕事もうできないから、野菜を少しつくって、こうして束にして売りに行っています。年寄りだから米も少ししか食べないから、それで足りるでしょ。お金ないから、生活はとても苦しい。
1996年収録
No.24
by 真実 2015-01-18 17:09:23 投稿する 削除依頼
以上アジア女性基金から抜粋しました。読んでいただきありがとうございました。
韓国は
韓国軍による南ベトナム一般市民(乳幼児、少女含む)強姦惨殺の件を、教科書に載せていない
しかし、韓国は
捏造した歴史を教科書に載せている
日本軍による慰安婦の強制連行、性奴隷
これでは、日本人がいくら温厚でも、韓国を嫌って当然
他の国なら、こんな韓国は助けない
日本政府もやっと、目が醒めたようだ
スワップ終了!
平昌オリンピック無援助
他の国では当たり前
下手だとお金を払わない奴もいたって。笑
ベトナム元憲兵「慰安所で10代少女が韓国軍の相手していた」
NEWS ポストセブン 5月3日(日)7時6分配信
ベトナム戦争中、韓国軍が多くの婦女子を強姦・凌辱した事実を本誌は報じてきたが、さらにこのほど発見された米公文書により、ベトナムに「韓国軍慰安所」が存在していたことが判明した。韓国政府が沈黙を守る中、フォトジャーナリストの村山康文氏と本誌取材班はベトナムに飛び、その隠された史実を探った。村山氏がレポートする。
* * *
書簡が作成されたと推定される1969年当時、サイゴンには韓国軍ベトナム司令部が置かれ、海軍輸送戦隊の「白鴎部隊」や空軍支援団の「銀馬部隊」をはじめとする多数の韓国兵が駐留していた。その数は、8年間で延べ2万人に上る。またサイゴンは前線で戦う兵士の休息地でもあったため、夜の歓楽街は連日、軍服姿で闊歩する韓国兵で賑わっていたという。
書簡で指摘された旧サイゴン市内のトルコ式浴場は食堂に姿を変え現存していた。当時からこの付近に住む、元南ベトナム政府軍憲兵のグエン・ゴック・ビンさんはこう証言する。
「この地域に軍服姿の韓国兵が増え始めたのは1968年ごろからで、ほぼ同時期に浴場がオープンしました。建物はベトナム人女性が所有していましたが、彼女と親交のある韓国軍幹部と思しき人物が譲り受け、浴場を開業したのです。当時、私は南ベトナム政府軍の兵士として米・韓両軍と連絡を取り合う立場にあったので、浴場が出来た経緯はよく覚えています」
ビンさんの記憶によれば、浴場が営業していたのは1968年から1973年の半ばまで。これは1973年3月に撤退した韓国軍のサイゴン駐留期間とほぼ重なっている。韓国軍幹部が経営に関与していたのであれば、浴場は米書簡の指摘どおり「韓国軍による慰安所」だったと言って差し支えないだろう。ビンさんが続ける。
「韓国兵は夜になると米軍のMP(憲兵)らとジープでこの辺りを徘徊し、酒を飲み大騒ぎしていました。その勢いで浴場に遊びに行くのです。店で働いていた女性は全部で7、8人。いずれもベトナムの貧しい農村からやって来た10代の少女でした。
彼女たちは、毎日のように大勢の韓国兵の相手をさせられていた。乱暴な扱いを受けることもあるらしく、韓国兵のことをとても嫌っていました」
もともと韓国兵の慰安所として作られた浴場は、やがて米兵にも開放されるようになった。米兵が利用する際の料金は38ドルだが、「韓国兵は1回3~4ドルで利用できた」とビンさんは証言する。当時の韓国軍2等兵の平均月給は約50ドル。米軍2等兵の月給が約240ドルだったことを考慮しても、韓国兵が優遇されていたことは明白だ。
さらに取材を進めると、旧サイゴン市内の各所で韓国軍の乱れ切った風紀を物語る証言を得ることができた。当時を知る住民が語る。
「浴場から約1km離れた場所には、米軍MPの施設がありました。その鼻先には売春斡旋を目的とするバーが建ち並び、韓国兵や米兵が入り浸っていた。
付近の『ブイ・ヴィエン通り』と呼ばれる歓楽街は売春婦のたまり場で、バーから連れ出したベトナム人女性を連れ込むためのモーテルもたくさんありました。女性を巡って兵士たちが殴り合う光景を目にしたこともある。遊びに行く前に麻薬を使う者も多く、トラブルは絶えませんでした」
元南ベトナム政府軍の兵士だったタイン・アン・コンさん(仮名)もこう話す。
「サイゴンのブイ・ティー・スワン通りは、麻薬を扱う店が軒を連ねていたことから『麻薬通り』と呼ばれていました。休暇のため前線から戻ってきた韓国兵は、空港からここに直行し麻薬を購入、使用してから女性を買いに行くのが恒例でした」
韓国兵が女性を求めて繰り出す先は、慰安所だけに止まらなかった。
「5区にあるホアビン公園は別名『ダイハン(大韓)公園』と呼ばれていました。ここで商売をする女性を漁るため、毎日のように韓国兵が押し寄せたからです。女性はいつも20~30人ほどいて、韓国兵の間では『ホアビンの女は質が高い』と評判でした。
ただし、女性から聞かされるのは韓国兵の悪評ばかり。女性が服を脱ぐ間もなく乱暴に押し倒したり、ことを終えた後に『お前は下手だ』と罵り、金を払わない韓国兵がいたからだそうです」(前出・コンさん)
※SAPIO2015年6月号
ところがね、
アメリカも韓国と同じ穴の狢なんだ。
そこなんだよ、アメリカが韓国の戯言に何も言えないのは。
アメリカとしては、
韓国軍の韓国人共産党員虐殺を笑って黙認していた事、
ベトナムで、一部のアメリカ兵がベトナム市民を虐殺した事、
を表沙汰にしたくはないんだ。
隠したい黒歴史がある、
これについては、アメリカは韓国と価値感が一致するんだ。
アメリカも、日本を悪玉にした方が都合がいいって訳。
だから、
真実を明るみにする日本人にレッテルを貼るんだ
歴史修正主義者、軍国主義者、極ウヨク、、とね。
朝日新聞と共産党も、加担してるよ。
これについては、中韓、ロシア、アメリカも利害関係が一致してるんだ。
みんな、世界に隠したい歴史を抱えているんだ。
日本は慰安婦に対して謝罪して補償金を出したが、韓国は無視している。
ひどい話だ。
ベトナム戦争時「韓国軍兵士が性的暴行」 女性ら訴え
ワシントン=小林哲
2015年10月16日15時29分
ベトナム戦争に参加した韓国軍兵士に性的暴行を受けたなどと訴えているベトナム人女性やその家族らが15日、訪米中の朴槿恵・韓国大統領らに対し、韓国政府による謝罪と賠償などを求める請願書を提出したと発表した。「私たちのことが忘れられてしまう。正式な謝罪もなく数十年が経った」などと訴えている。
米国の支援団体「ベトナムの声」がワシントンで記者会見し、被害にあった女性4人(60~74歳)と韓国軍兵士と被害女性の間に生まれた男性(45)らがベトナムからのネット中継で謝罪を求めた。また、15日付の米紙ウォールストリート・ジャーナルに意見広告を掲載。レイプ被害にあったという女性4人が顔写真付きで登場し、朴氏に対し「謝罪すべき時です」と呼びかけている。(ワシントン=小林哲)
慰安婦被害を訴えるどころじゃないねえ。笑
ベトナム戦争時に韓国軍兵士から性的暴行 被害女性らが訪米中の朴大統領に謝罪求める
産経新聞 10月16日(金)17時42分配信
【ワシントン=青木伸行】在米ベトナム人の団体が15日、ワシントンで記者会見し、ベトナム戦争当時、韓国軍兵士から性的暴行を受けたというベトナム人女性らが、訪米中の朴槿恵(パク・クネ)大統領に謝罪を求めた。記者会見にはベトナム人女性4人が、テレビ電話で参加した。
このうち66歳の女性は、「薪を集めていたときに兵士に襲われた。その後妊娠し1970年に出産した。働くこともできず、子供に教育を受けさせることもできなかった」と訴えた。
また、60歳の女性は「家族でお茶やバナナなどを売る店を営んでいた。韓国兵士が来て母親が暴行され妊娠し、69年に男の子を産んだ。その後、私も暴行を受け71年に息子を出産した」と証言した。
被害者を支援するノーム・コールマン元上院議員は被害者の数を「数千人」と見積もり、このうち生存しているのは「約800人」だと説明している。
団体と被害者の女性らは朴大統領の訪米の機会をとらえ声を上げたもので、15日付の米紙ウォールストリート・ジャーナルに、被害者に対する公式な謝罪を朴大統領に求める広告も掲載した。
慰安婦を問題する前に、自国の犯罪に目を向けよ
在米ベトナム人の団体が15日、ワシントンで記者会見し、ベトナム戦争当時、韓国軍兵士から性的暴行を受けたというベトナム人女性らが、訪米中の朴槿恵(パク・クネ)大統領に謝罪を求めた。記者会見にはベトナム人女性4人が、テレビ電話で参加した。
実際にパックンチョは何か謝罪をしたの?
「ベトナムの声」背後に日本がいても過ちは消えない=韓国メディア報道に「日本のようになるな」「心からの謝罪と補償を」―韓国ネット
配信日時:2015年10月25日(日) 23時0分
2015年10月23日、韓国・ハンギョレは、朴槿恵(パク・クネ)大統領の訪米日程に合わせて行われた在米ベトナム人の抗議デモは日本が絡んでいるのではないかとの疑惑が持ち上がっていると伝えた。
朴大統領の訪米日程に合わせ、15日に米ワシントン・ジャーナルにある広告が掲載された。広告には、韓国軍から暴行されたと主張するベトナム人女性4人と朴大統領の写真が写っており、「朴大統領、私たちはレイプされた。今が謝罪すべき時」(PRESIDENT PARK,WE WERE RAPED.IT’S TIME TO APOLOGIZE)との文字が記されていた。また、米国のベトナム人権団体「ベトナムの声」はホームページで2万9000人の抗議署名を集め、19日に在米韓国大使に渡した。このほか、国連事務総長に、ベトナム戦争期間中の韓国軍の組織的なレイプについて国連の調査を促す請願運動も行っている。
これについて、今回の運動の背後に日本が絡んでいるのではないかとの見方が浮上している。それは、「ベトナムの声」をサポートするコールマン元上院議員が、日本政府が雇用したロビー会社に所属しているロビイストではないかとの疑惑が報じられたからだ。しかしハンギョレは、「『ベトナムの声』が日本の支援を受けているとしても、韓国軍がベトナム人に犯した過ちが消える訳ではない。日本に対する韓国の謝罪要求は、韓国に対するベトナム人の謝罪要求となって跳ね返ってくる。韓国社会がベトナム人の謝罪要求に耳を傾け、過ちを認めるとき、慰安婦被害者に対する日本政府の真の謝罪を受けることができるのではないだろうか?」と伝えている。
いまだに歴史教育がデタラメみたいですよ
勿論 韓国軍のベトナムでやった鬼畜行為は 全く教えないから 殆どの国民は知らない
独立記念館にその悪戯の 人形がリアルにあるが 日本兵になってる
ベトナムにも謝罪するか?
韓国軍が虐殺した民間人慰霊のため少女像作家が「ベトナムピエタ」建立を構想
ハンギョレ新聞 1月16日(土)7時45分配信
ベトナムでの虐殺に目を向けた作家のキム・ソギョン氏とキム・ウンソン氏
ベトナム戦争当時の韓国軍による民間人虐殺を謝罪し、被害者を慰める象徴物がベトナムと韓国に設置される。 正式名称「ベトナムピエタ」(母と無名の坊やの像、ベトナム語の名称は「最後の子守歌」)。彫刻は2011年、ソウル鍾路区中学洞の駐韓日本大使館の向い側に立てられた「平和の少女像」を作った二人の作家キム・ソギョン氏(51)とキム・ウンソン氏(52)が構想した。 「ベトナムピエタ」は平和教育と市民募金を経て年内にベトナム民間人虐殺地域と韓国国内に設置される予定だ。
ベトナム戦争に対する歴史的責任を知らせる団体「韓国・ベトナム平和財団建立推進委員会」関係者は15日、「今年中にベトナム中部地域の多くの村で虐殺50周年の慰霊祭が開かれている」として「この行事に合わせて謝罪と慰霊の意味でベトナムピエタを贈るため、各村やベトナム政府と接触している」と明らかにした。今月12日、作家のキム・ソギョン氏とキム・ウンソン氏が公開したベトナムピエタは、大地の女神の上で虐殺された坊やを抱く母親の姿をしている。 二人の作家は「ベトナムを訪問して虐殺された多くの無名の子供を見たし、その姿が刺となり目を刺した」として「謝罪と反省の意味を込めて理由も分からずに殺された人々を記録して慰霊したかった」と話した。
ベトナム ピエタは縦横70センチ、高さ150センチ、重量150キログラムのブロンズで製作される予定だ。重量450キログラムの花崗岩がベトナムピエタを支える。
キム・ソギョン氏とキム・ウンソン氏は12日、ハンギョレとのインタビューで「韓国政府は日本軍『慰安婦』被害者問題に関して、日本政府に正確に謝罪を要求し、受け取らなければならない。 また、ベトナム戦争における民間人虐殺に対しても正確に謝罪しなければならない。 現在韓国政府は二つともできずにいる」と話した。 キム・ソギョン氏は日本軍「慰安婦」被害者たちが提案して設立された「蝶基金」事業の一環で昨年ベトナムを訪問し、韓国軍による強姦など女性への性暴力事例を共同調査した。 韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)と韓国・ベトナム平和財団建設推進委は被害者ハルモニ(お婆さん)の基金などでベトナム民間人虐殺問題を調査・研究している。
ナム・ジョンヨン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )