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なんのこっちゃ
昨晩も、1人2人役でしたね。わかり易すぎ
港南4またやらかしちゃいましたね。
1人2人役? 自分は港南4じゃないけど。
ときどき登場する(╹◡╹)の人は港南4じゃないでしょ
山手線の駅には駅名と区名が異なる駅がある。品川駅は港区にあるし、目黒駅は品川区にあるのだ。おかげで品川駅が江戸時代の東海道の最初の宿場の品川かと誤解されるが、東海道の品川宿は、歩行新宿(かちしんしゅく)、北品川宿、南品川宿からなり、JRの品川駅ではなく京浜急行の北品川駅から新馬場にかけてあった。
古くて大きい宿場町であるから、江戸時代以来遊郭は多かった。幕末には90軒あまりの遊郭があったという。江戸から明治にかけての人にとって当時の品川は現代の東京で言えば歌舞伎町のような場所であった。特に関東大震災後の品川に客が殺到する様はすさまじかったという。数カ月は連夜満員客止めだった。1922年までは年間33万人だった客数が24年には53万人に増えたというのだ。娼妓数は1918年から28年までずっと4000人ほどであるから、女性たちの忙しさだけが増えたことになる。
品川の人口を見ると、関東大震災までは東海道沿いに人口が集中していたのに、震災後は西側の郊外部で人口が増えた。1920年から30年で品川宿あたりの人口は微増か減少であったが、大井町は90%増、上大崎(目黒駅付近)は35%増、さらに戸越方面は約9倍、中延方面は25倍、小山は40倍という激増ぶりであった。
江戸時代の遊郭の客の主流は大名屋敷の武士だったし、19世紀までは富裕層だったが、20世紀になると中流階級が主流になったからである。明らかに人口重心が海側から山の手側に移動した。そして海側は次第に工業地帯となっていき、宿場町時代の風情は失われていったのである。
江戸時代の話とかどうでもいい。
貧民窟どころか、地歴として海だった場所とか問題外なんだし。
https://downtownreport.net/timeline/
これを見ると、近々に益々進化していくエリアはあちこちあるのね。
随分と先まで待たされる場所もあるようだけれど。苦笑
>>89987 匿名さん
貧民窟は浜松町2丁目の田町よりの南半分ですね。浜松町1丁目は大名屋敷だったそう。
浜松町一丁目は、天正18年(1590年)に徳川家康が江戸城に入城して以来、江戸城の城下町として整備された。慶長3年(1598年)、徳川将軍家菩提寺である増上寺が麹町より現在地に移った。慶長6年(1603年)には、東海道が現在の国道15号線上に定められ様々な店が並び商業地域の中心となり、軒を連ねる店の後ろには、松平家や森家、酒井家など、徳川将軍の家臣である大名屋敷が建ち並んだ。その後、「福沢屋諭吉」が誕生した明治2年(1869年)。当時、福沢諭吉と慶應義塾はそれまで特定の名称がなかった「福沢塾」は「慶應義塾」と命名され、この新銭座の地が「慶応義塾」の発祥地。時に慶応4年(明治元年)。その敷地400坪余に100人程の塾生を収容できる塾舎が建てられ、本格的な英学塾が発足した。
浜松町二丁目の貿易センタービルの南裏側(旧芝浜松町四丁目の一部)は、かつて芝新網町(しばしんもうちょう)と呼ばれ江戸時代から続く三大貧民窟の一つであり、乞胸(ごうむね)・願人(がんにん)など江戸特有の賤民の居住地であった[6]。いずれも徳川時代の旧非人系の被差別**であり、資本主義の発展のもとで都市スラムとして拡大した。日露戦争(1905年)後、都市の拡大とともに、貧民窟には様々な圧力が加わった。下谷万年町や芝新網町では、地価の高騰で家賃が上がり、多くの人々は場末の細民街に移動した。特に屑物屋は営業規則の施行で、荒川区の日暮里や三河島へと移転。四谷鮫ケ橋では、新宿南町の長屋へ移動していく人が多かった。
浜松町って貧民窟だったのか。道理で今でも都心なのに駅はしょぼいし駅周辺にチープな雰囲気が漂っているわけだ。
>>89991 匿名さん
駅舎の建て替えで今の風情がなくなるのは残念です。東北、上越、北陸新幹線の東京駅と世界のリニア品川駅へ5分以内。羽田空港へノンストップ13分で長距離アクセスに最も便利な駅であることに間違いありません。
浜松町は穴場だよ
あんな立地が今まで手付かずだったわけだし
不動産持ってた人達はラッキーだよね
>>89989
その中身を見るとほとんどが事務所、ホテルなど。結局、住民にはほとんど関係ないんだよね。ポイントは商業施設、文化施設なんだけど誰か予定されている商業施設の床面積の一覧を作ってくれないかな?
パークコート浜離宮とかツインパークスとか汐留は浜松町というよりも新橋のイメージなんですが皆さんいかがでしょうか?浜松町駅前にも汐留ビルディングはありますけどね。