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馬鹿だからですか?
【なんでも雑談板から政治・時事掲示板へ移行致しました。H23.8.22 管理担当】
[スレ作成日時]2011-08-17 08:33:45
馬鹿だからですか?
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[スレ作成日時]2011-08-17 08:33:45
朝から晩まで日本を必死でけなしてるクセに
日本語しか書けないなんて ・・・・・・ おそらく世界でもっとも 悲惨な人生 だな
ああ 日本人に 生まれて、ほんとうによかった。
↑北朝鮮出身の工作員が何を言ってる。
鮮人同士の内ゲバは 日本列島の外でやっておくんなまし 迷惑 だ か ら
ネトウヨを北朝鮮工作員扱いする変り者は日本語が理解できていないからそう思い込んでる。理解が足りませんな。
↑ばれて焦ってる。
↑ばれないようにひとのせいにして焦ってる
↑ばれて焦ってる。
どう解釈してもネトウヨが北朝鮮工作員にはならないだろう。日本のネトウヨが北朝鮮工作員なら自ら暴露し自国を否定し北朝はテポドンで自滅する気か?
そんなはずはない。民主党は自民叩きで焦ってる。
韓国と日本を離反させたいのが丸見えだよ。
それに利用されるその他大勢のネトウヨたち。
誤魔化せないよ。
韓国人自身が「竹島は韓国の所有物」「日本は韓国の敵国」と発言してるらしいが。
↑というようなことを言って煽るわけですよ、北の工作員は。
はい?世界中から韓国の汚い手口は有名なんですよね?工作せずとも充分世界中に汚名が轟いてる。
北朝鮮は言わずもがな。
↑はいはい。
とうとう北朝鮮のせいにする韓国人。
北朝鮮のせいにしたい韓国人
中国が中華思想で半島は一の奴隷子分。だからけがいの地の民は彼らの文化で言う白丁。
でないと精神のバランスを保てない民が朝鮮民族。
彼らのこの悪しき文化を変えない限り、我々日本からはよき隣人足り得ない。と、教科書で教えないといけない。
ボクマサキ言わく「民族の歴史を燃やせ。」。
反論するものはいなかろう。
だから朝鮮と中国で争いな。日本は関係ない。
スレ主は反日思想家でしょうか?
一方的に日本のせいにする精神構造は反日朝鮮人と同じものですよ。
それは実は彼ら朝鮮人の日本人に対する強烈なやむに已まれぬ劣等感から来ています。
そしてその劣等感の背後には彼ら自身が持つ日本人への「罪」の意識の反動から来ています。
その「罪」の意識の大元は何か?
彼らが必死に隠す「日本人大量虐殺」の歴史。
その拭いがたい負の記憶が彼らの反動を引き起こしています。
日本人が韓国人と日本で共生社会の未来を築くなど、とんでもない迷妄です。
日本人は韓国人とはまったく違う人種です。
この2国民は本来の性格から相容れることのできない悲惨極まりない歴史を持っています。
韓国人の祖先が
日本人になしてきた 大量虐殺行為。
元寇の時の 対馬での韓国人兵士たちの 悪逆非道ぶりが
800年たった今でも 歴史に 国名に記録されております。
その一部を確認いたしましょう。
「高麗史」によれば、
元寇の発端は高麗の忠烈王が元の世祖(フビライ・忽必烈)にしきりに働きかけ、
執拗に日本への遠征を勧めたことからきている。
その結果、1274年、高麗は自ら、日本を侵略するために戦費全額を高麗が負担、
軍船900隻を建造し、2万人の高麗軍によって、日本の対馬・壱岐に上陸し残虐な殺戮を行った。
http://ameblo.jp/campanera/entry-10118887122.html
(当絵画は、Yada Issho画伯、福岡県の指定文化財である)
1274年10月5日、対馬に上陸した敵兵は、住民は男はことごとく殺され、
女は生きたまま手に穴を空けられ、数珠のように繋がれ、捕虜として船に吊るされた。
さらに200人の少年と少女は高麗軍に連れ去られ、高麗王・忠烈王に献上された。
1274年10月14日、2万人の高麗軍は壱岐を攻める。
ここでも対馬と同じく、壱岐の住民は大部分が斬殺され、
対馬と同様に、婦女子は手に穴をあけられ船に吊るされたという。
壱岐の守護代 平景隆は約100騎と義勇軍で奮戦力及ばず、一門一党残らず自殺、
宗三郎に急を太宰府に報じるよう命じた。
壱岐は、高麗軍らの残虐行為により、すっかり荒廃してしまった。
夕暮戦場のあとを彷徨い、戦没した夫を恋う妻、父を慕う子の悲惨さなど
戦争のむごたらしさを物語るものがあった。
対馬・壱岐に点在して残る「千人塚」。
高麗軍によってたくさんの日本人が虐殺されたことをいまも伝えている。
今も泣く子を黙らせるため、母親が子に「ムクリコクリの鬼が来る」(モンゴル韓国の鬼が来るよ)
とあやす言い方が日本各地に残っていて、辞書にも残っている。
元寇(日本征伐)から700年を経過した今なお、
日本人の高麗に対する潜在的な恐怖心は消えていないのである。
高麗史の元宗十三年(1272年)三月の条
>日本は、モンゴル皇帝様に服属していません。
>だから、戦艦を作って日本を侵略しましょう。
>もしも、この事を皇帝さまの下僕である私に任せくだされば心力を尽くし励みます。
>皇帝さまの力になります。
6月初め、忠烈王は入朝の許可を求めるため、将軍朴義を元に派遣する。
”東征のこと、臣入朝して、その旨を受けん”と奏せしめるためであった。
つまり、高麗王自らが、「東征に従軍することを請う」と目的が記されている
忠烈王はフビライに謁して、高麗が日本再征にすすんで加担することを述べ、
合わせて忠烈王自身がこのたびの戦後にあたっては、高い地位の軍職を望んでいることを告げた。
こうして韓国人は日本侵略をはじめました。
円覚寺(ENKAKUJI)は
13世紀に日本を侵略し「九州大虐殺」という蛮行を行った、
韓国人中国人モンゴル人の兵士を祀ったお寺です。
日本の指導者の将軍、北条時宗(HOUJOUTOKIMUNE)が建て参拝しました。
このように日本侵略、九州大虐殺を行った韓国人兵士を祭る施設が日本には沢山あります。
800年間日本人により保護されてきました。
日本は日本人を大量虐殺した韓国人兵士をも神仏として参拝する国です。
死んだら敵の虐殺者も味方もみんな神仏です。
日 本 人 は 侵 略 者 韓 国 人 を 許 し
神 仏 と し て 奉 り ま し た 。
し か し 、
韓 国 人 は
日 本 よ り 強 い 国 が 後 ろ に あ る 時 、
そ の 国 を 利 用 し て 日 本 を 侵 略 す る 、
と い う 事 を 絶 対 に 忘 れ ま せ ん 。
韓 国 人 は
日 本 人 虐 殺 の 前 科 者 で あ る こ と を
私 た ち 日 本 人 は 絶 対 に 忘 れ て は い け ま せ ん 。
【関連記事】
対馬の中世 中国朝鮮連合軍による島民虐殺の図
http://blogs.yahoo.co.jp/osakawsp/5236959.html
元寇(wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87#.E6.96.87.E6.B0.B8.E3....
【日本の被害】
文永の役における日本側の被害について、具体的な記録は実はそう多く残っている訳ではない。
そのなかで比較的具体的な内容を取材している資料として早くから知られているのは、日蓮の書簡のうち、文永末年から建治、弘安年間の初期に書かれた一連のものである。
現在伝世している日蓮の書簡のうち、特に文永の役での対馬や壱岐についての被害を述べた有名なものとしては、建治元年5月8日に佐渡の一谷入道日学の女房に宛てた、いわゆる「一谷入道御書」がある。それによると、
《去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者カタメテ有シ、総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)、》
「百姓」=一般人は「男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ」ている状況とともに「女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス」 とある。
そして、「男」と「女」に懸かるのであろうか、「一人モ助カル者ナシ」と書かれており、壱岐でも、同様の残虐な仕打ちがなされた、とある。
明治中頃に日本内外の蒙古襲来関係の史料を収集した山田安栄 編の『伏敵編』(1891年)には、「按(あんずるに)」として、『高祖遺言録』載録の上記の「一谷入道御書」と室町時代後期に描かれた円明院日澄『日蓮註画讃』(後述)に記述されているこれらの事柄について、編者山田安栄のコメントがある。山田安栄はまず、『太平記』に「掌ヲ連索シテ舷ニ貫ネタリ」との記述と比較しつつ、「索ヲ以テ手頭ト手頭ヲ連結シタルニ非スシテ。女虜ノ手掌ヲ穿傷シ。索ヲ貫キ舷端ニ結著シタルヲ謂フナリ。」と述べ、捕虜となった人々の手首同士を綱や縄で結び付けているのではなくて、手のひらを穿って傷つけそこに綱を貫き通してそれらの人々を舷端に結わえ付けた、と書かれているものであると文中の意味内容を明確にして説明している。
さらにここでは、『日本書紀』の天智天皇の時代(662年)について書かれた高麗の前身の国家である「百済」での事例を引き合いに出し「手掌ヲ穿傷……」(手の平に穴をあけてそこへ縄を通す」の意)云々のやり方を、朝鮮半島において古来より続く伝統的行為としている。
まさに、この残虐行為を証拠として高麗人の仕業、と編者は判断している。
日蓮は、対馬や壱岐、あるいは九州本土における惨劇を『高祖遺文録」の各個所で言及している。
室町時代の円明院日澄(1441年 - 1510年)の撰になる『日蓮註画讃巻第五「蒙古來」篇』には、文永・弘安の役について「一谷入道御書」その他一連の日蓮の書簡類や『八幡愚童訓』の記事に多くを依拠しつつ、
「二島百姓等男はあるいは殺あるいは虜、女は一所に集め、手を徹、舷に結付虜の者は一人も害さざるなし。肥前国松浦党数百人伐虜さる。この国の百姓男女等、壱岐・対馬の如し、」「皆人の当時の壱岐対馬の様にならせ給(たま)はん事思ひやり候へば涙も留まらず。」とも書かれている。
また同じく建治元年8月に出された「乙御前御消息」では、《壱岐対馬九国の兵士並びに男女、多く或は殺され或は擒(と)られ或は海に入り或は崖より堕(お)ちし者幾千万と云ふ事なし。》(同右書)とある。
なお、対馬→壱岐を侵した後、元艦船隊は鷹島へ向かった。そして、上陸軍を揚げている。『八幡愚童訓』の文永の役の件においても「(文永十一年十月)同十六日、十七日平戸能古、鷹島辺(あたり)の男女多く捕(とらわ)らる。松浦党敗北す。」とある。
『高麗史』や『高麗史節要』などの文永の役後の記事に童男女が俘虜として高麗国王等へ献じられたという記述が見られるため、「男女」が「捕らる」とあることから対馬や壱岐の住民も捕囚され連行されたものと考えられる。
その後の日本では、元寇の時、蒙古・高麗軍が日本を襲い虐殺を行ったことを、「蒙古高句麗の鬼が来る」といって怖れたことから、転じて恐ろしいものの代表として子供の躾けなどで、「むくりこくり、鬼が来る」と脅す風習などとなり、妖怪に転じて全国に広がった。
モッコの子守唄(青森県木造町)のように「泣けば山がらモッコくるね、泣がねでねんねしな」などと、昔の蒙古襲来の怖さを子守唄にしたものなど、上記の残虐行為への恐怖を証明する民間伝承は全国に存在する。
世界中殆どの国での日本への評価は世界トップクラス。
カナダを始め多くの国が日本を好意的に見ています。
図らずも東日本大震災での日本人の高いモラルが世界中に知れ渡った今となっては、日本を妬んで悪く言うはごく一部の国だけ。
このレスは素晴らしい内容があるので上げます。