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日本共産党「日の丸・君が代は侵略戦争に突き進んだ日本のシンボル
異常な強制によって子供たちの思いを押しつぶし台無しにする 卒業式での強制を直ちにやめるべき」
http://gensen2ch.com/archives/23708772.html
[スレ作成日時]2015-03-04 20:17:45
日本共産党「日の丸・君が代は侵略戦争に突き進んだ日本のシンボル
異常な強制によって子供たちの思いを押しつぶし台無しにする 卒業式での強制を直ちにやめるべき」
http://gensen2ch.com/archives/23708772.html
[スレ作成日時]2015-03-04 20:17:45
日本共産党「日の丸・君が代は侵略戦争に突き進んだ日本のシンボル
異常な強制によって子供たちの思いを押しつぶし台無しにする 卒業式での強制を直ちにやめるべき」
http://gensen2ch.com/archives/23708772.html
ここはおかしな主張をする政党ですね。
日本を危うくしてるのは大企業じゃなく官僚中心の公務員なのに・・・
この連中の異常な膨張が日本の大事な税金を丸呑みにしてるのに
大企業のみターゲットにして国民にサヨク思考を植え付けようとしている。
過去にリンチ殺人事件を起こした唯一の政党。
「従軍慰安婦」にさせられた人々の証言(「破られた沈 黙」 風媒社 1993 より)
マリア・ロサ・ヘンソンさん (フィリピン在住)
■世界のどこでも私たちの体験を繰り返させないで
私はルソン島パンパンガ州パサイで生ま れました。お 父さんはアンヘレス市の大地主で、お手伝いさんとして 使っていたお母 さんに私を生ませたのです。私はお父さ ん が借りた家で、お母さんと生活していました。 1941年12月8日は学校に行ってましたが、 戦争が始 まったというので家に帰されました。翌日、お母さんと 他の家族と一緒に疎 開しました。 1942年2月頃、薪を集めていて2人の日本兵と偶然出会 いました。2人は驚いてい る私を捕まえたのです。私は 殺されるかも しれないと思いました。そして、刀を持っ た「田中」という名前の兵隊がもう1人や って来て、私 を強姦したのです。出血があ り歩けませんでしたが、農 民が通りかかっ て彼の家に運んでくれました。 そこに2日間いて、歩けるようになった ので家に戻り ました。お母さんは「殺され なかっただけでも幸運だっ た。騒がずに沈 黙を守るように」と言いました。 2週間休養して元の体調に戻ったので、 再び隣人や親 戚たちと薪集めをしていまし た。しかし、あの士官らし い日本兵が待ち 伏せしていて、再び私を強姦したので す。 2度どこのような目にあわないようにと、 お母さんの 故郷のアンヘレス市郊外に移りました。 私は2度も日本兵に強姦された怒りから、 抗日ゲリラ 集団の「フクバラハップ」に加 わりました。私の役割 は、ゲリラ部隊のた めに市民から薬・古着・食料を集め ること でした。 1943年4月のある日、水牛の引く荷車に 乗って私と2 人の男が家に帰ろうとしてい た時のことでした。病院前 の検問所で、日 本兵は通行証を見て通ってもよいと言っ で いったんは通してから、私だけを呼び止め たのです。 荷車の中には45口径の拳銃と弾 薬、それに手榴弾が、乾 燥トウモロコシの袋の中に隠してありました。ここで、 拳銃 を押収されなかったのがせめてもの救いで した。 私は、日本軍が駐屯していた病院に監禁されました。 ここで、他の6人の女性とと もに日本兵の性の慰みもの にされたのです。 日本兵は次々とやって来たので、息つ く暇 もありませんでした。 3ヵ月後に、そこから300メートル離れ た精米所だっ た建物に連れて行かれ、そこ でも日本兵の相手をさせら れました。ここ から別の場所に連れて行かれることもあ り ました。 1日に20回を越えるほど日本兵の相手を させられたの です。若い私にとって苦痛に満ちた体験でしたが、拒め ば必ず殺される ので、それもできませんでした。 日本人の医師に週1回くらいの割合で検診を受けまし た。妊娠して流産もしました。 私は、日本語がいくらか わかりました。 ある時、日本兵が話しているのを聞い て、 日本軍が私の村にゲリラがいることをつきとめて、 村を襲おうとしているのを知った のです。私は、村の人 が通るのを待っていてこのことを伝えたので住民は避難 しま した。しかし、このために私はあざだらけ になるほ ど銃剣で顔をひどく殴られ、意識 を失ってしまいまし た。 目を覚ましたとき、お母さんが家の中で 微笑んでいる のが見えました。後で、ゲリラがこの駐屯地を攻撃し、 私を救い出してくれたことを知りました。私は、拷問と マラリアのために2ヵ月間も意識がなかった のです。 50年間も胸に秘めてきた私の体験を、い つかは話さなけ ればならないと思っていま した。それで、今までにも何 度か日本大使館に手紙を書こうとしたのですが、相手に されないだろうと思ってやめていました。 1992年に、ラジオで「恥ずかしがらない で さあ立ち あがってあなたの権利のために闘いましょう」という呼 びかけを聞きま した。世界のどこであっても、私たちの 体 験を繰り返させてはいけないと思い名乗り 出たので す。どんな戦争でも女性と子ども が最初に犠牲になるか らです。
ノ・チョンジャさん (韓国在住)
私自身が強制連行の最も確かな証拠ではありませんか
私が生まれたのは大田の貧しい農家でし た。 数え年で17歳の3月のことです。お母さ んと畑で豆の 種を蒔いていましたが、昼に なってお母さんは家に戻り ました。すると、 村人たちが来て「日本人が処女たちを 連れ て行こうとしている」と言うのです。すぐ、 お母さ んが走って戻って来て「兵隊が来た から早く逃げろ」と 言いました。 伯母さんの家に逃げることになり、お母 さんは自分の 白いチマ(スカートのような 民族衣装)を脱いで、顔を隠 すために私に かぷせてくれました。そこから伯母さんの ところまで3里ありましたが、私は「道を知 っているの で1人で行く」と言ったのです。 峠の手前で女の泣き声が聞こえました。 そちらを見た ら兵隊と捕まえられている女がいたのです。私はチマを かぶっていたので、兵隊がいるのに気がつかなかったの で す。足が震えて逃げられずに捕まってしま いました。 その兵隊は、赤い文字で「憲兵」と書かれた腕章をして いました。 100メートルほど連れて行かれると、そ こには大きな トラックが3台停まっていて、 兵隊たち10人がいまし た。幌のかかったト ラックに乗せられたら、他の所で捕 まった娘たちがいました。この時、私を入れて38 人が捕 まったのです。18歳か19歳が多かっ たですが、16歳の女 もいました。「殺されるのではないだろうか」と、みん なで抱き 合って泣いていました。その時、私には面 (村) 事務所で書記をしていたいいなずけ がいて、5日後には 嫁に行くことになっていたのです。 トラックは鉄道の駅に着き、すぐに無蓋 の汽車に乗せ られました。4昼夜走って着 いたのは「北支」の天津で した。そこから 更に「タイカチン」まで汽車で行き、ト ラ ックで「五台山」(山西省にある)という 最前線の部隊 に着きました。そして部隊から100~200メートルほど離 れたところに建 っていた小屋に入れられました。 小屋の中は、板で細かく仕切られた部屋 がありまし た。部屋には番号が付いていて、 私は7号室でした。外 から入れるように部 屋ごとに入口があって、そこには カーテン が掛かってかっていました。 その日の夜7時頃、どの部屋にも兵隊が 入って来たの です。それは1等兵・2等兵 たちでした。私は激しく抵抗 したので、兵 隊に殴られたり蹴られたりしました。鼻や 口から血を出し、お尻に大けがをしました。 それからの日課は、朝6時の起床ラッパ で始まりまし た。そして、兵隊が大きな 桶に入れて持って来るご飯を 女たちで分けて食べるのです。そして午前9~10時まで に風呂を済ませると、11時から兵隊たちが 来ました。夜 10時か11時までは普通の兵隊 で、それ以降から午前3時 までは将校でし た。毎日30~40人が来たのです。そのた め、 女たちはいちいち着物を脱がず、下半身は出しっぱ なしでした。 兵隊が戦場に出かけたり戻って来た時には「大日本国 防婦人会」と書かれたタスキ を掛けて送り迎えをさせら れたこともあり ます。 部隊がいたのは昔の城郭の中でした。その門を出入り するには胸に標識を付けてい ないとできないのです。だ から、私たちが 逃げることなど不可能でした。 天津に住んでいる権という名の朝鮮人商 人が、城内に 出入りしていました。この人 が「そんなにしていたら、 いつ死ぬかわか らない」と、私だけを逃がしてくれたの です。トラックの荷台に、息ができるように 穴を開けた 箱を乗せ、その中に私を寝かして入れました。そして、 その上に品物を乗 せて見つからないようにしたのです。 それは、そこへ行って2年3ヵ月した時でした。 帰国してから今まで、出稼ぎ・畑の手伝 い・お手伝い さんなど、いろんな仕事をし ました。だけど、結婚は一 度もしませんで した。日本兵に蹴られでけがをした痕が 痛むからです。今でも痛くて寝れないほどで、 働いてお 金を貯めては病院に行くという生 活でした。ちゃんとし た治療を受けるには、 50万ウォン(約7万1000円)必要だ と医者 に言われてあきらめています。 毎月、役場からもらう3万6千ウォン (約5100円)のお金 と米10キロ・麦1升で生活しています。ニンニクの皮むき の仕事 は、2日かかって20キロをむいて3800ウォ ン(約 540円)にしかなりません。お粥を 食べて命をつないでい るのです。 私は、結婚式の直前に処女を汚され、青春を奪われて しまったのです。私の一生を こんなにした日本人を見る と、歯ぎしりを するような憎しみを感じます。日本政府 は 「強制的に連れて行った証拠がない」と、 事実を隠そ うとしていますが、私自身が最 も確かな証拠ではありま せんか。 素直に罪を認めて早く補償をして欲しい のです。そう すれば、今の家から追い出さ れずにもすみます。誰も身 寄りがないし、 何とか命を保っているような状況なの で、 このままだと早く死んでしまったほうが良 いくらい です。