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マンション掲示板さん [更新日時] 2024-03-26 10:13:12

辛 光洙(シン・グヮンス、1929年6月27日 - )は、韓国の政治犯。日本人拉致に関わった北朝鮮の工作員。通称「坂本(さかもと)」[1]。1978年、福井県に住む若い男女地村保志と妻の富貴恵を拉致した実行犯で、1980年には原敕晁を拉致して彼の戸籍を横領し、「原敕晁」名義の運転免許証や旅券を取得して彼になりすまし、日本や韓国で工作活動をつづけた[1]。

シン・グヮンス
辛 光洙
???
生誕
1929年6月27日(92歳)
日本の旗 静岡県浜名郡新居町
別名
坂本(さかもと)
立山 富蔵(たてやま とみぞう)
辛 洙光(シン・スグァン)
洪 万植(ホン・マンシク)
黄 万植(ファン・マンシク)
廬 在烈(ロ・ジェヨル)[1]。
出身校
ブカレスト工科大学機械学部
罪名
日本人を拉致し、そのパスポートで韓国に入国し、韓国で工作活動
刑罰
死刑。のち無期懲役に減刑。1999年に恩赦で釈放
人物 編集

1929年(昭和4年)、静岡県浜名郡新居町(現・湖西市)生まれ[1]。幼少期の日本名は「立山 富蔵」(たてやま とみぞう)。父は土木作業員だった辛チョンダル、母は徐ミョンダムで、五男二女の五男として生まれた[1]。のちに兵庫県尼崎市に一家で移り、立花第一尋常小学校に入学、小学校3年生のとき富山県高岡市に移り、高岡市立下関国民学校に転校した[1]。国民学校から高等国民学校に進み、卒業後の1943年に高岡工芸学校(現在の高岡工芸高校)機械科に入学した[1]。

1945年8月の太平洋戦争終結後、高岡工芸学校を中退して日本を離れ、慶尚北道浦項市鶴山洞に定住し、浦項中学校に編入された[1]。浦項中学では左翼運動にかかわったとして指名手配され、兄を頼ってソウルに逃走、ソウルでは旧制普成中学校への編入が許可された[1]。1950年に朝鮮戦争の勃発で北朝鮮義勇軍に志願入隊、前線の戦闘に参加した[1]。1952年には朝鮮労働党への入党が許可され、53年には勲功メダルを授与された[1]。1954年にブカレスト工科大学予科入学、1960年には機械工学部を卒業して、機械技師資格を取得して北朝鮮に帰国した[1]。日本語、英語、朝鮮語、ロシア語の4ヶ国語を話す。1960年から1971年までエリートエンジニアとして朝鮮科学院で研究生活を送った[1]。その間、1度結婚したが、その妻とは死別し、その後、李元求(リ・ウォング)と結婚して一男三女をもうけた[1]。1971年、朝鮮労働党の命により工作員となった[1]。

1973年に元山港から工作船で能登半島に不法入国し、大阪方面、長野県、ついで東京の在日朝鮮人で子連れの寡婦だった朴春仙(パク・チュンソン)の家で暮らし始めた[1][2]。この時の辛の生活は石高健次が1994年頃、朴から聞いている。朴によると辛は2階の1室を借りて住みこんだ。しかし来客を嫌い、2階の部屋に閉じこもるほど、工作活動の漏洩には注意していた。外出して書籍を買ってくる時は決まって日本政府の白書(主に防衛、軍事関係)だった。北朝鮮への郵送物は自分では行かず、朴が代わりに行くことが多かったが、絶対に「東京国際郵便局に行ってくれ。近所の郵便局ではだめだ」と話していたという。石高が朴からこれらのことを聞くことができたのは、朴からの依頼であり、「私がかつてスパイ(=辛)と暮らしていたから」と話を切り出したという。辛はのちに朴に対し自分が工作員である旨を話しているが、朴は土台人ではなく、本人は知らぬ間に協力させられていたのである。1974年秋、朴は辛の子どもも身ごもったが、最終的に出産を断念した[3]。傷心の朴を辛は北陸方面への旅行に誘った[3]。辛は滑川市の海岸で1時間半くらい調べごとをし、朴は東京に帰されたので日帰り旅行となった[3]。その2、3か月後、今度は九州旅行に誘われ、宮崎市の海岸まで出かけたが、いつもは受信ばかりなのに、今回は朝鮮語で発信もしていた[4]。1975年も後半になると、辛光洙は出張の方が多くなって家を空けることが多くなった[5]。1976年2月、辛光洙は家を出て北朝鮮に3年ほど帰ることを春仙に告げた[5]。そして、大阪での工作活動をおこない、それが一段落した1976年8月、以前春仙と行った滑川の海岸から北朝鮮に密出国した[1][5]。ここまでが第1回目の浸透であった[1]。

平壌に召喚された彼は、1976年9月下旬から12月まで平壌直轄市龍城区域の龍城5号招待所に密閉収容されて政治学習などを行い、1977年1月からの半年間は工作員養成機関である金星政治軍事大学の外国語班で外国語習得を行った[1]。その後、万景台区域に移り、半年間、政治思想と通信技術、化学暗書法などの再教育を受け、さらに、78年から79年にかけては日本人化の再教育を受けた[1]。そして、1980年2月には2度目の浸透工作のため、日本に再派遣された[1]。再派遣に際して、金正日朝鮮労働党書記は、直接辛光洙に対し「日本人を拉致して北に連行し、日本人として完全に変身した後、対韓国工作活動を続けよ」との指示を下した[1][6]。

辛光洙事件の被害者である原敕晁は、在日朝鮮人の李三俊(星山俊夫)が経営する大阪市生野区鶴橋の中華料理店「宝海楼」にコックとして働いていた[6][7]。辛光洙は、1973年(昭和48年)に日本に密入国して以来、何度も北朝鮮との間を往復し、在日朝鮮人を工作員として組織する一方、韓国についての情報を集めるなどの職務に就いていた[6]。辛は李三俊に、未婚で親類縁者がなく、日本のパスポートを一度も発給されたことがなく、前科もなくて顔写真や指紋が当局にとられていない、また、借金や銀行預金がなく、長期間行方不明になっても騒がれる心配がない、45歳から50歳くらいの日本人男性を探せという指示を出した[6]。

李三俊は、自身が経営する鶴橋・千日前通の「宝海楼」の従業員原敕晁に目をつけた[6][7]。原が独身で身寄りがないと思われていたからであった[6]。李三俊は原に「いつまでもこの仕事ではきついだろう。知り合いに事務職を募集している会社があるから、そちらに行ってみてはどうか」と持ちかけ、貿易会社の社員になることを勧めた[6]。こうして「貿易会社」による原敕晁の面接がおこなわれることになったが、貿易会社の重役として辛光洙らとともに臨んだのが大阪朝鮮初級学校元校長の金吉旭であった[8]。金吉旭自身は、日本人で45歳から50歳くらいの男性と20歳くらいの女性の拉致を命じられていた。

そして、1980年6月、宮崎県青島海岸で、日本人原敕晁を李三俊・金吉旭らと共謀して拉致、同人になりすまして海外渡航を繰り返した。1985年にソウル特別市内で韓国当局に逮捕され、その取り調べによって辛は日本人を拉致したこと、その拉致した日本人に「背乗り」(はいのり)、つまり成りすまして工作活動を行ってきたことを自供した。韓国の裁判所はこれを事実として有罪判決を下した[9]。

逮捕に至った手がかりは、辛光洙が日本で利用していた土台人のネットワークを構成する者が、辛光洙のことを日韓の公安当局に通報したことによる[注釈 1]。当初は死刑判決を受けたが、後に無期懲役に減刑。1999年12月31日、金大中大統領によるミレニアム恩赦で釈放され、2000年9月2日、「非転向長期囚」として北朝鮮に送還された[9]。北朝鮮では、英雄として辛の記念切手が販売されている。

2005年12月30日、先に述べた調理師以外にも、現在帰国している一部の被害者や、新潟県新潟市で拉致された13歳の横田めぐみ等の拉致に、辛光洙と「朴」と名乗っていたチェ・スンチョルが実行犯として関わっていたことが明らかにされた。警視庁公安部は2006年2月23日、福井県小浜市から地村保志と妻の富貴恵を北朝鮮に連れ去った(1978年7月)ほか、原敕晁(ただあき)を拉致した(1980年6月)として、国外移送目的略取と国外移送の容疑で、再度逮捕状を取得、同3月3日、重ねて辛光洙をICPOを通じて国際指名手配し、北朝鮮に対し所在の確認と身柄の引き渡しを要求している。2016年7月25日に放送された朝鮮中央テレビの映像でおよそ8年ぶりに辛光洙とみられる人物の姿が確認された。

[スレ作成日時]2021-12-01 19:09:38

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