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日本と台湾は一心同体
[スレ作成日時]2011-03-19 08:11:07
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日本と台湾は一心同体
[スレ作成日時]2011-03-19 08:11:07
Ken
2019年9月1日
2 分
台湾の日本偉人伝Vol.1 神様になった日本人「小林三武郎」
こんにちは!KUMAKUN管理人のアヤちゃんです。?
今回は、台湾で活躍した日本人の偉人を紹介していきます。
今回ご紹介する偉人は、現在、神様として、地元の人々から愛されている、「小林三武郎」という人物をご紹介していきます。
小林三武郎とは
小林三武郎は、日本統治時代のとき、台湾の宜蘭という地区で、森林警官という警察官の、巡査を行っていました。
森林警官とは、林業に関する取り締まりを行っている警官で、無計画な伐採や、不法な森林伐採などを取り締まる警官の事です。
小林三武郎の功績
小林三武郎は、森林警官として、森林伐採の取り締まりを行うほか、畜産や農業を、人々に教えていました。
小林三武郎の功績の中で、こんなエピソードがあります。
あるとき、ニワトリや豚といった、家畜の種付けがうまくいかず、畜産業が思うように進まないという事態が発生しました。
そうした村の状況を鑑みた小林三武郎は、役所が所有している家畜を村人に貸し出しました。
しかし、本来役所の家畜を貸し出すことは本来認められておらず、ましてやそれを無許可で貸し出す行為は許されることではありませんでした。
しかし小林三武郎は、畜産に悩む村の人々を無下にすることができず、内緒で家畜を貸し出していました。
その回数も一回ではなく、種付けの失敗を重ねるたびに、「もう一回、もう一回!」と、繰り返して挑戦を行っていました。
そのため、小林三武郎は、村人から「もういっかいさん」と呼ばれるようになり、深く親しまれました。
村に奉られた、小林三武郎
そうした経緯から、多くの村人に愛された小林三武郎は、死後、 土地神様として宜蘭の太和村に祀られました。
この祠にはこんな言い伝えがあり、この土地の地主が祠を移そうとしたとき、夢の中に小林三武郎が現れ、「祠を移すのはやめてほしい。」と懇願したそうです。
そして今も大和村には、小林三武郎の祠が木のそばにひっそりとおり、村を見守ってくれています。
村人のために、危険を冒しても、手助けをいとわない。
そんな小林三武郎の精神と人柄は、年月が経った今でも深く愛されています。
こうした人々の行動は、僕たちも見ならなわいといけませんね。
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台湾に親日家がは多い理由?八田 與一(常用漢字: 八田 与一、はった よいち、1886年〈明治19年〉2月21日 ? 1942年〈昭和17年〉5月8日)は、日本の水利技術者。
はった よいち
八田 與一
Yoichi Hatta.jpg
生誕
1886年2月21日
石川県河北郡花園村(現石川県金沢市今町)
死没
1942年5月8日(56歳没)
長崎県五島列島付近
国籍
日本の旗 日本
出身校
第四高等学校
東京帝国大学工学部土木科
職業
水利技術者
著名な実績
烏山頭ダム建設
配偶者
外代樹(とよき)
生い立ち?台湾へ 編集
1886年(明治19年)に石川県河北郡花園村(現在は金沢市今町)に生まれる。石川県尋常中学、第四高等学校(四高)を経て、1910年(明治43年)に東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督府内務局土木課の技手として就職した。
日本統治時代の台湾では、初代民政長官であった後藤新平以来、マラリアなどの伝染病予防対策が重点的に採られ、八田も当初は衛生事業に従事し嘉義市・台南市・高雄市など、各都市の上下水道の整備を担当した。その後、発電・灌漑事業の部門に移った。1910年総督府土木部工務課で浜野弥四郎に仕えることになった[1]。台南水道の事業で実地調査を共にするうちに八田は浜野から多くのことを学び、後述の嘉南大?や烏山頭ダムにその経験が活かされることになった[1]。1919年に浜野が離任で台湾を去ると、八田は台南水道に浜野の像を建立している。浜野像は戦時中の金属供出令で資材に流用されたが奇美実業創業者の許文龍により再制作、2005年に元の水源地に設置されている[1]。
八田は28歳で、当時着工中であった桃園大?の水利工事を一任されたがこれを成功させ、高い評価を受けた。当時の台湾は、まさに上述のインフラストラクチャー建設のまっただ中で、水利技術者には大いに腕の振るい甲斐のある舞台であった。31歳のときに故郷金沢の開業医で、後に石川県議なども務めた米村吉太郎の長女・外代樹(とよき)(当時16歳)と結婚した。