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【板違いのため、政治・時事掲示板に移動しました。 2012年9月3日 管理担当】
[スレ作成日時]2006-08-08 20:12:00
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塩田道夫さん天皇と東条英機の苦悩—A級戦犯の遺書と終戦秘録より
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4537021144/249-3432005-0431539?v=gl...
東條は終戦と同時に、
戦争犯罪人として米軍に逮捕される事を察していた。
しかし、日本の将来のために生きて責任をとりたいが、
米軍が直接逮捕するようなことがあれば、その時は
『生きて虜囚の辱めを受けず』
という戦陣訓を作った責任者だったため、
自ら捕えられることは『屈辱』だと思っていたのである。
午後四時過ぎ、クラウス中佐の指揮する二個分隊のMPが到着した。
しかもこの逮捕は日本政府を通じる正式ルートの逮捕ではなく、
GHQからやって来たMPの手による逮捕なのだ。
これは東条がもっとも嫌っていた状態となった。
いかに敗戦國とはいえ、これは一國の元首相であり、
陸軍大臣だった東条の立場を無視した行為であった。
東条は部屋の中央に置かれた椅子で横たわり、
左胸をピストルで射ったのか、白い開襟シャツは鮮血で汚れていた。
東条は意識があり、クラウス中佐が近づくとピストルを床におとしたが、
使用したピストルは米國製のコルト式三二口径であった。
このピストルは、
八月十五日に割腹した二女満喜枝の夫・古賀秀正が
終戦に反対し近衛師団のクーデターに失敗して
自殺する時のとどめに撃ったものだった。
東条の多量な出血は手早く応急処置がとられた。
東条邸を警備する警官が近所を走り回り、
日本人の医者を呼んでくると東条の傷の治療が行なわれた。
止血の処置をしたため、東条の一命がとりとめられると、
午後六時二十五分に米軍の軍医が到着した。
軍医はモルヒネを注射して応急処置をした。
東条英機の自決は未遂に終わったのである。
午後七寺、東条の身柄は、
横浜市中区本牧一丁目の大島國民学校にある米軍の
『第九十八野戦病院』に収容された。
ここで東条の手術は直ちに行なわれた。
左肺を貫通していたピストルの弾丸の摘出がなされた。
この結果、
東条勝子がすでに亡くなったと思っていた夫・英機の生命は甦ろうとしていた。