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匿名さん
[更新日時] 2015-02-21 20:54:30
今年も敗戦記念日が近づいてきた。ABC級戦犯なんぞは茶番の東京裁判で決められた事であり、議論に値しない。
しかしながら、近代史においてあの戦争はなんだったのか?軍民あわせて300万人の死者数を出しながら国内で総括もされていない。日本政府が日本人にあの戦争はどのどこの誰にどの位の責任があったか説明責任があると考える。
最高責任者である天皇なのか?暴走した関東軍なのか?大本営か?政府か?
みなさんの意見を拝聴したい。
[スレ作成日時]2009-07-19 15:00:00
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戦争責任
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匿名さん
▼▲ 太平洋戦争略史 ▲▼
1941年12月、 真珠湾攻撃、米、英に宣戦布告、香港占領;
1942年 1月、 マニラ占領、
〃 〃 2月、 シンガポール占領、
〃 〃 4月、 米軍が東京初空襲、
〃 〃 6月、 ミッドウェー海戦敗北、
〃 〃 8月、 米軍、ガダルカナル島に上陸、
1943年 5月、 アッツ島玉砕、
1944年 7月、 サイパン島玉砕
〃 〃 7月、 インパール作戦失敗、
〃 〃 10月、 フィリピン沖海戦敗北、
1945年 3月、 硫黄島の戦い敗北、
〃 〃 3月、 東京、大阪大空襲、
〃 〃 6月、 沖縄戦敗北、
〃 〃 8月、 広島、長崎に原爆、
〃 〃 8月、 無条件降伏受諾、
〃 〃 9月、 降伏文書調印、
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匿名さん
▼零戦で敵機を撃つ。
『戦闘機・零戦は機首の7.7㍉機銃に威力はないが、両翼に1門づずある20㍉の
機銃は最強だった。
弾は1門60発だけ。 時速500㌔以上で飛ぶ米軍の敵機に命中させるには
相手を追い詰め、至近距離で撃つ必要がある。
10㍍、5㍍にも迫る。 敵の操縦士と目と目が合う。
「やめてくれ」「助けてくれ」と訴える様子の相手にとどめを刺す。敵機は火ダルマ
になって落ちて行く。殺さなければ殺される。それが戦争だ。
ただ、相手の恨めしげな表情は記憶から消えない。お国に尽くす私は一方で、人間と
してあるまじき行いをしている。そんな思いが胸に残った。』
元、海軍中尉・原田要氏(98歳)
某新聞記事より。
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壕の”病院”を再現、(沖縄戦)
●沖縄戦の壕のにおい再現
・・・・・・「ブタやネコの死体が腐ったようなにおいに、いろいろ混ざった感じ」
・・・・・・ 体験者は「汗や血のニオイ。忘れられない・・・」 と語る。
69年前の沖縄戦で多くの負傷者がかつぎこまれ、「ひめゆり学徒」たちも看護にあたった、
沖縄県南風原(はえばる)町の丘陵に掘られた壕(ごう)内の病院のにおいが再現された。
汗や血、汚物などが混ざった強烈なニオイだ。
壕を管理する南風原の町立南風原文化センターが、
「戦争の悲惨さを、より確かに伝えたい」と、当時、壕にいた人たちの証言をもとに
造った。
早ければ来年1月から壕の見学者に嗅いでもらう。
1944年、那覇市内の沖縄陸軍病院は米軍の空襲で焼失し、南風原国民学校に移転。
さらに米軍の攻撃が激しくなり、45年3月、学校近くの丘陵に掘られた壕へ移った。
その跡が「沖縄陸軍病院南風原壕群」として残る。
沖縄県南城市で暮らす金城栄善さん(80)は、45年4月ごろ、米軍の攻撃を避ける
ため、姉や妹らと病院壕に逃げ込んだ。
入り口近くにたたずんだ金城さんの耳に、暗い壕の奥から負傷兵の声にもならない声
が聞こえた。しかし、何より強烈に記憶に残っているのが、においだ。
「ブタやネコの死体が腐ったようなにおいに、いろいろ混ざった感じ」という
ttp://www.asahi.com/articles/ASGDL4SJ6GDLUCVL01J.html
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625
周辺獣民さん
▼戦争体験談:20代の6割「聞いたことない」
戦争体験のない人でも2人に1人が体験談を聞いていることが、毎日新聞社と
埼玉大学社会調査研究センターが行った時事問題世論調査「日本の世論2014」
で分かった。
20代は6割が体験談を聞いたことがなかった。
日本の人口の8割は戦後生まれ、戦争体験の継承の仕方を考える時期にきている。
回答者のうち、戦争を体験した人は14%、していない人は85%。
体験していない人に「太平洋戦争を実際に経験した人、もしくは、親や祖父母から
体験談を直接聞いたことがありますか」と聞いたところ、
53%が「聞いたことがある」と回答した。
「聞いたことはない」は46%だった。
年代別では、40代~80歳以上で「ある」は過半数、最多は60代の62%だった。
大半の親が戦後生まれとみられる30代は「ない」57%に「ある」43%と逆転し、
20代は「ない」60%、「ある」39%。
「ある」人の27%が、「不安に思っていること」を聞く質問に「憲法改正」を挙げた。
「ない」人より9ポイント高かった。
http://sp.mainichi.jp/select/news/20141225k0000m040131000c.html
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626
匿名さん
日中戦争、太平洋戦争はアメリカと中国が仕掛けた戦争だ。
彼らの陰謀だったことだけは、しっかり理解しておこう。
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627
匿名さん
>>622
1942年(昭和17年)6月のミッドウェイ海戦の敗北から、日本の敗戦色
が濃厚になっていった。
あの時に敗戦を認めていれば、日本もこんな惨めな国家にならないですんだ。
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628
匿名さん
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629
匿名さん
なぜ『南京大虐殺』は事実ではないのか
「文献によると、南京市内のあちこちで散発的な暴力行為はあったが『大虐殺』という言葉を使って南京で起きたことを語るべきではない。虐殺はとても血なまぐさく目撃した人の記憶に残るものだが、むしろ日本軍が占領したことで、治安が回復した。『虐殺』より『事件』と呼ばれるべきだ」
--その理由は
「そもそも国民政府の蒋介石や軍幹部が首都陥落直前に敵前逃亡し、南京ではあまり戦闘はなかった。中国兵が軍服を脱いで(民間人に偽装した)便衣兵や不良捕虜となったため、日本軍は処断を余儀なくされた。こうした捕虜の処断は国際法に準じて行われたが、大量に処断された。このことは悲惨だった。ただし、日本軍による中国人の処断の数について中国政府が主唱し、一部の識者が追随している万の単位を超えるようなものではなく、20万、30万人という虐殺などあったはずはない。中国の反日プロパガンダ(謀略宣伝戦)だ。(事態を招いた)責任は第一義的に敵前逃亡した国民政府にある。日本軍だけに責任を負わせるのは非道で、蒋介石の責任が問われるべきだ」
--「外交は無形の戦争である」と語った蒋介石は国際情報戦に力を入れた
「国民政府は戦わず情報戦を仕掛けた。中央宣伝部が巧みに欧米のジャーナリストを取り込み『大虐殺』を捏造した」
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630
匿名さん
「私は上空にいた。眼下には炎上する空母3隻。
「あぁ 日本は負ける・・・」と思った。
唯一残る空母「飛龍」に着艦。 被弾した自機は海に捨てられた。
別の零戦で発艦した直後に、「飛龍」が爆撃され、火を噴いた。
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631
匿名さん
▼元教師の書家の書「東京大空襲」の衝撃、
ニューヨークタイムズは,日本の保守勢力に「歴史修正主義」 のレッテルを貼って
きたが、戦勝国の立場に胡坐をかき、歴史を修正してきたのは、どっちの国か?
昨年待つ、漫画『とめはねっ!』(河合克敏著)を読んでいて、思わず息を飲んだ。
作中、見開きで大きく紹介されていた昭和20年3月10日の東京大空襲を題材に
した元教師の書家、井上有一氏の書「噫 横川国民学校」(群馬県立近代美術館所蔵)
があまりにも衝撃的だったからだ。
「アメリカB29夜間東京空襲 闇黒東都忽化火海 江東一帯焦熱地獄」
「親は愛児を庇い子は親に縋る」
「全員一千折り重なり 教室校庭に焼き殺さる」
「噫呼何の故あってか無辜を殺戮するのか」
「倉庫内にて聞き氏親子断末魔の声 終生忘るなし」
(産経、1月12日、視線:「米国の傲慢な歴史修正」より)
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632
匿名さん
>>631
書幅いっぱいに埋め尽くすように書かれて文字は、積み重なり、苦しみな
がら焼き殺された人々に見える。 自身は一命を取り留めたものの、
教え子を失った井上氏が、血涙で書いたかのような印象を受けた。
▼東京大空襲(死者10万人)は非戦闘員の殺傷を目的とした。
約10万人が死んだ東京大空襲は、非戦闘員の殺傷を目的としており、もと
より国際法違反である。
米田健三・元内閣府副大臣の調査によると、東京大空襲の「作戦任務」(昭和
20年3月9日付)の目標は、軍事施設ではなく「東京市街地」と明記されて
いる。 最初から一般住民を標的にしていたことは明らかなのだ。
▼ 空襲の被害者の4割は0歳~19歳の未成年者だった。(ジェノサイド!)
東京大空襲・戦災資料センターが東京都から寄贈された被害者の名簿3万人分
のうち、年齢が分る人について調べた結果がこの空襲の性質を表わしている。
それによると、被害者の年齢層で最も多いのは0歳~9歳の20%で、次いで
10歳~19歳の18%だった。実に4割近くが未成年だったのである。
これは通常の戦争遂行行為ではなく、米軍による子供の大量虐殺(ジェノサイド)
にほかならない。
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633
匿名さん
>>632
▼GHQの検閲と歴史の修正、
米国は戦後、こうした自らの罪を日本人の眼から隠そうとした。
明星大の戦後教育史研究センターの勝岡寛次氏の著書、
「抹殺された大東亜戦争、米軍占領下の検閲が歪めたもの」(明成社)
によると、連合国軍総司令部(GHQ)は検閲で、例えば米軍の東京
大空襲での国際法違反行為を指摘したこんな文章を削除した。
「無辜の一般市民に対して行へる無差別的爆撃、都市村邑の病院、学校、
その他文化的保護建物の無斟酌の破壊、病院船に対する砲爆撃等、数へ
来らば例を挙ぐるの煩に堪へぬほと多々あった」
(信夫淳平氏『我が国に於ける国際法の前途』)
「米国は原子爆弾と中小都市焼撃で日本全土を荒廃し数百万人の非戦闘員
を殺傷せしめた」(石原莞爾氏・宋徳和氏対談『満州事変の真相』)
米国は、自分に都合の悪い歴史は堂々と修正し、歴史から抹殺しようとして
きたのである。
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634
匿名さん
>>633
当時、日本に対する空襲について『史上最も冷酷、野蛮な非戦闘員殺戮の一つ』
(ボナー・フェラーズ准将) と自覚していたのは間違いない。
焼夷弾を使用した夜間無差別爆撃に踏み切ったカーチス・ルメイ少将の下で、
作戦計画作成に当たったロバート・マクナマラ元国防長官は記録映画の
「フォッグ・オブ・ウォー」(2003年公開)の中で、こう赤裸々に証言
している。
「ルメイも私も戦争犯罪を行ったのだ。 もし、負けていればだ」
だが、戦勝国は全部を正当化し、敗戦国はすべてを我慢するなどという状態が
70年以上ももつわけがない。
米国は傲慢になりすぎない方がいい。
(産経新聞、1月12日、「視線」阿比留瑠比)
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635
匿名さん
★国策映画【敵機空襲】
太平洋戦争中に憲兵司令部で作られた国策映画をDVDで見た。
いずれも冒頭に「一億の誠で包め、兵の家」というスローガンが出てくる。
特に興味深いのが松竹映画の「敵機空襲」(1943年4月公開)だ。
野村浩将、渋谷実、吉村公三郎の3人が事実上の監督をつとめ、田中絹代、
上原謙、高峰三枝子、笠智衆らが出演している。
日本軍は米軍に押され、ミッドウェー島の空軍基地から飛来する大型爆撃機に
よる日本本土空襲に備えている。日本軍は防空体性構築に全力を尽くしているが、
空襲を阻止することは難しいので、隣組を動員し、防空演習や防空壕掘りを
国民に呼びかける。
しかし、金持ちは隣組に金一封を寄付し、防空演習には参加しない。
空襲を恐れ、地方に疎開する人たちから、不動産を買い叩くブローカーも
暗躍している。 ついに米爆撃機が到来する。
第一陣は撃退するが、第二陣は数が多いので、日本軍の迎撃戦闘機が全機
出撃しても対応ができず、米軍は空襲に成功する。
一年後に実際に生じた状況を予言する内容だ。
この映画を観ると、日本は守勢で、国民は政府の統制に従わず、もはや
勝機をつかむことはできないという認識を抱く。
この映画で国民の士気を高めることができると考えた憲兵司令部の発想が
理解できない。
(佐藤優、 2014年10月31日、某新聞コラム)
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636
匿名さん
9.11テロと原爆投下
『9月11日のアメリカの同時多発テロ、 暴力も暴力、あの時、多くのアメリカ人が
あの攻撃を真珠湾攻撃と比較したので私はびっくりしたが、アメリカも原爆という、
もっと残酷な暴力を振るったの である。
世界貿易センターの死者は ”たかだか6千人未満 ”だが、アメリカは核兵器の
残虐性を知りつつ、正義を云々する国家として、2個の原爆を日本の非戦闘員が住む
地区に向かって投下したのである。
ヒロシマでは約20万人は投下の瞬間に黒こげになったのである。 人の命は数
ではないと言うが、数は揺るぎない事実であり重みであろう。
6千人 対 20万人という比率で、アメリカの方がもっと残虐な国であったと
言える。』
(曽野綾子「沈船検死」より)
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匿名さん
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638
匿名さん
▼靖国神社の由来:
靖国神社は、明治2年(1869)6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた
「東京招魂社」が始まりで、明治12年(1879)に「靖国神社」と改称されて
今日に至っています。
靖国神社は、明治7年(1874)1月27日、明治天皇が初めて招魂社に参拝された折に
お詠みになられた「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」の
御製からも知ることができるように、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を
慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。
「靖国」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」
「平和な国家を建設する」という願いが込められています。
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639
匿名さん
名著、
深谷敏雄著、『日本国最後の帰還兵・深谷義治とその家族』
集英社、1800円(税抜き)、
国のたっめに身を尽くした男を救ったのは、家族だけだった。線後70年、
いま全ての日本人に切実に訴える家族の絆。 渾身のフィクション!
中国戦線の日本軍スパイだった深谷義治。敗戦後も特命を受け、上海に
潜伏13年、獄中20年4カ月。
家族も不屈の精神で迫害を耐え、1978年に全員で日本へ。 だが帰国者
という現実の壁が一家の生活を蝕む。
彼の苦難の連続の人生を支えたのは、故郷の母への想い、自分を信じ抜いて
くれた妻とこどもたちだった。
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640
匿名さん
▼小林多喜二の遺体の写真を発見、
「蟹工船」などで知られるプロレタリア作家の小林多喜二が、特高警察の
拷問で死亡し自宅に運ばれた後に撮影された写真の原板が、2月20日
に東京都内で見つかった。
遺体を母親セキらが囲み、悲嘆に暮れている様子を生々しく伝える貴重
な史料だ。
作家仲間らが遺体を囲んでいる写真は有名だが、今回見つかった写真は
存在も知られていなかった。双方の写真の原板が一緒に保管されていた。
見つかったのはガラス乾板という、現在のネガフィルムに当たるもの。
プロレタリア文学研究者の伊藤純さん(82)が昨秋、都内の自宅で、
父親で多喜二の作家仲間だった貴司山治の遺品を整理中に発見した。
http://www.47news.jp/CN/201502/CN2015022001002153.html
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641
匿名さん
戦前の日本の体制の犠牲者だが、また、どういう形で復活するかわからない。
国家主義とは、何事も国家が優先するという思想だから。日本国家のためには
全てを投げ打っても尽くせという思想が復活してくれば、当然、またこういう
犠牲者は出るだろう。
小林多喜二の死は日本の過去の出来事のように思われるが、忘れた頃に突然
似たようなことが出てくるかもしれない。
国家主義は常にゾンビのように甦ることはあり得る。どこの国でも。